みんなが選ぶ「独断と偏見の、これが和の本?

一般ユーザーの方々からの「おすすめの和の本」を紹介。

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「こんこんさまに さしあげそうろう」  森はな 作 梶山俊夫 絵
PHP研究所/発刊

一番さむい、 大寒のころの、ある山里でのお話。
なんにちも、なんにちも、雪が降り続いて山も畑も真っ白です。
暗い穴の中で、おなかを空かせた子ギツネがないています。
母ギツネは食べ物をさがしに村へおりて行きました―――。
昔、但馬の山里で行われていた行事「野施行(のせぎょう)」を描いた作品。
この絵本には、日本人が大切にしてきた「自然の中で、人も動物も共に生かされているという感謝」「施しの心」「母と子の情愛」が描かれていると思います。
心が冷え冷えとする事の多い昨今、与えることで得られる豊かさで、心を暖めてください。

(「京の酒どころ 伏見 」 在住 女性)
 
「ながい坂」(上・下) 山本周五郎 著(新潮文庫)

私は、この本を読むたびに勇気をもらいます。
この本の中には、今の日本人が失いかけている「大切な生き方」が 散りばめられている気がします。 江戸時代末期の士農工商、老若男女、さまざまな人々の生き方を描いた面白さと、主人公とそのライバルの対照的な生き方が心に残ります。
名家の御曹司として生まれ、並外れた才能と美貌を兼ね備えて育 ちながら、その重みに耐えかねて身を持ち崩すライバル滝沢兵部。 一方、貧しい下級武士の子として生まれ、人生の「ながい坂」を苦しみながらも登りつづけ、 遂には城代家老となる主人公の三浦主水正。 物語の中、薬店主から金儲けのため、薬草園をやるよう勧められた老人が「天然しぜんに育つからこそ、薬草にはそれぞれの精分や効力がつく。朝の露、夕べの霧、澄みきった山の気、そして朽ち葉や落ち葉の中で育つからこそ薬効が備わる。人間も同じだ」と言うくだりが胸を打ちます。
今の日本人が(私も含めて)僅かの物しか持たずとも、逞しく、 心豊かな生き方ができればと念じています。

(生徒会NO16 女性)
 

「會津八一と奈良」 ―歌と書の世界ー 西世古 柳平 著  入 江 泰 吉 写真
(二玄社 刊) ISDN4-544-02014-X C0076 \2000E

會津八一氏の自詠自書114首と入江泰吉氏 の写真で、奈良の四季をあらわした本。
13年ほど前、友人と白毫寺に萩を見に行っ た折、入江氏が撮影に来られていました。 入江氏ファンの友人は奇跡がおきた如き喜 びようでした。 撮影の邪魔にならぬよう、その場を離れよう とした私たちに、 入江氏が 「せっかく萩をご覧になっているのに、お邪魔 して申し訳ありません。ゆっくりご覧になって ください」 と言われ、脚立をのけてくださいました。 今は亡き入江氏のお人柄が偲ばれます。 奈良といえば「會津八一」そして「入江泰吉」 です! (但し、私は文学や写真に詳しくありません) これから新緑の季節。 奈良は、美しいと思います。

(生徒会NO16 女性)

 
「万葉集」

例えば) 信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉とひろわむ こいまろび 戀は死ぬともいちしろく 色には出じ朝顔の花
など 31文字(みそひともじ)の中に、素直な心を 表現した1300年前の万葉びとは「凄い!」 と思います。 (現代人より一面すぐれているのかも。) 胸に響くうたが多く、「紐解く」まではいきま せんが、本を開くと時間を忘れてしまうこと もあります。

(生徒会NO16 女性)
 
「恋するハガキ絵」淡交ムック 遊美シリーズ 清水佳代著 篠原宏明写真
( 淡交社) 1300円(税込)

「絵手紙」という言葉が流行っていて、NHK教育とかでもちょっと前に番組があ りました。 でもちょっと「絵手紙」って私達より年齢が上の人にブームって感じがしていま した。 この本はそれよりもっとカジュアルで、現代的な「日本のこころ」を感じさせて くれます。
インターネットやメール、携帯電話…現代のコミュニケーションも、 それはそれで便利だし、それぞれの良さを持っています。 でも、一枚のハガキを書く(または描く)って今とっても新鮮で大切なことに思 えます。 一枚目だけがちょっとシンドイけど、 自分の机の上に色鉛筆や絵の具、筆やワリバシ (これがまた良い筆の替わりになるのです!これもこの本で教えてもらいました 。) がスタンバイされると、二枚目からは案外おっくうにならずに描けるものですよ 。 そうそう、たとえ描かなくてもこの本は眺めているだけでも癒されます。 一度手にとって見てください。だれかにハガキを描きたくなります。
(京都府宇治市 Rieko 39歳 会社員 )
 
「魔界都市・京都の謎」封印された闇の歴史を暴く 火坂雅志著 
(PHP文庫 )  552円(税別)

人間とはどうしようもないなぁ…というのがこの本を読んでの第一声であろうか 。 京都という都市は過去、人間の謀(はかりごと)や怨念、憎悪が渦巻き、 それを逃れるために、ありとあらゆる手段を使って「魔界封じ」を行っているの である。 この本を読んでいるとそれらが具体的に説明されていて非常に興味深い。
美しい観光案内の本が多い中で、最近この手の本が出てきているが、 これはその中でもわかりやすいと思う。 本文の最後に索引もついていて便利でもある。 京都は本当にこわいとろこなんだ、 どこになにがドロドロ〜と出てきてもおかしくない…というのがよくわかった。 京都に行ってみたくなる一冊である。
(横浜市 高橋A夫 45歳 会社員)
 

「能百番を歩く」 京都新聞社編 定価2000円(税別)

ずいぶん前に買った本です。今はいくらで出ているのでしょうか。 これは能の所縁(ゆかり)の地の案内書です。 もちろん、比較的ポピュラーな100曲の(正確には110曲) 能のストーリーも簡単に解説されているし、歴史的史実も知ることができます。
能の舞台の写真だけではなく、その所縁の地の写真も載っているので、 能を観にいくときも、旅にでる時もこの本を持っていきたくなります。 能に興味があまり無かった私ですが、旅が好きで、 「所縁の地」とかに弱かったのでついつい買ってしまいました。
それがきっかけで能を観に行くようになり、いまではすっかり能のとりこです。 この110曲を全部観ることが私の目標です。 誠実に作られた良い本だと思います。
(京都市 上賀茂在住 48歳 酒店経営)

 

「小倉百人一首」 大岡信著 (世界文化社) 定価1480円

誰でも子供の頃にはお正月を迎える度に百人一首のかるた取り遊びを経験していると思います。ある人は家族で、ある人は友達同士で。これほど老若男女問わず日本古来のゲームとして人々に親しまれている遊びも珍しいのでは。そして、それぞれの歌に隠された日本人の言葉と感性の豊かさ。
この本は、詩人、大岡信が現代人にもっともフィットする表現で、より難解な百人一首を身近なものとしてくれます。(歌人のエピソードも、小野小町、紀貫之はじめ楽しく読めます)
巻末の「かるたの遊び方」伊藤秀文氏(全日本かるた協会会長・九段)の大変わかりやすい競技としての百人一首も勉強になります。
手前味噌になりますが我滋賀県の近江神宮で一月に開催されます全国大会は有名です。
(滋賀県在住 男性



※和の学校注:こちらの本は絶版とのことです。

 

「千曲川のスケッチ」 島崎藤村著 (新学社文庫)

この作品は題名の通り、信州小緒地方の自然とそこに生活する人々を四季をとおして描いた散文です。これこそ日本でしか感じ、そして見ることのできない風景、 つまり和を感じとることのできる文によるスケッチブックです。私達が都会(京都は都会と言えないかもしれません)から離れ、郊外の田舎へドライブに行ったとします。「あー素晴らしい。自然はいいなあ。」などと言っても、その大パノラマを文章に置き換えてみることの難しさを実感することでしょう。この文章はまさしくスケッチで、小緒地方での自然や空気までもが今、目の前にあるように生き生きと写生されています。そして私達の心を千曲川の流れや浅間の山腹に連れて行ってくれるのです。私達は今の世にあって自然と共に過ごす時間を持つことを忘れてしまっています。せめてこのような本を読んで、四季を感じ、木々の間をそよぐ風の音を聞き、そしてまた友に便りの一つも描きたくなる心を沸き立たせる一冊であると思います。
(京都在住 30代女性)

 
東福門院和子の涙  宮尾登美子著 (講談社文庫 定価738円)
 
私は宮尾登美子の歴史ものが好きだ。歴史って教科書で習うとすごく難しくて、人間関係も全く分からない。教科書で習った時と違う視点で、その人にぐっと入り込める。また女性の行き方って、習わない。
和子は徳川家康の孫。家光と兄弟である。そして史上初めて、武家から朝廷に嫁いだ。
今でも京都には、和子が使用した物が残っている。それを拝見した時とても身近に感じ、また時代の重みに感動する。
いつの時代も一人の女性の思いは変わらないもの。
(滋賀県在住 20代女性)

 
「日本文化私観」坂口安吾(坂口安吾全集14、ちくま文庫)

ふだん、伝統文化についてあまり考えたことがない僕ですが、このエッセイによって、少し日本のことが気なりだしました。伝統文化なんかなくてもいい。日本精神なんか語らなくてもいい。日本をわざわざ発見する必要もない。なぜなら我々は日本人であるのだから、すでに日本文化を体現しているのだ。坂口安吾のそんな小気味いい文章は、伝統文化コンプレックスの僕をスッキリさせてくれました。だから最近逆に、日本のことが気になりだしたのです。
頭の固い伝統文化ファンや食わず嫌いの伝統文化コンプレックスの方におすすめします。坂口安吾のエッセイは、おもしろいですよ。この文庫全集にいっぱい入っています。

(会社員35歳、外人に日本文化が説明できない商社マン)
 
『日本の無思想』加藤典洋(平凡社新書)

欧米人と日本人の一番の違いは、日本人が「タテマエとホンネ」を使い分けることにある、とはよく言われるところ。特に日本の政治家は、「善処します」とか「前向きに考えます」のような発言が多い。公的な発言と私的な発言がまるでちがう。これは会社においても対人関係でも、言えることだ。
そんなことでは、日本人は今の国際社会では通用しない。仕事柄、外国の人と仕事することが多いので、はっきりと自分の意見を述べる英米の人間との違いを痛感している。
いつから日本人は、そんな気質を持つようになったのか。 かねてから不思議に思っていたが、そのことに真っ向から取り組んでいるのが、この本だ。政治家は、この本を読んで反省してもらいたい。

(会社役員、55歳、輸入業)


 

『風雅の虎の巻』橋本治 (作品社)

国文学を専攻している学生です。『枕草子』や『源氏物語』など橋本治の日本古典現代語訳を読んでいるうちに、橋本ファンになりました。それでこの本に出合いました。あけてびっくり。小説、映画、演劇、民俗芸能、能・狂言、短歌俳句、詩、日本画、音楽、料理、生花、茶の湯など日本文化についてエッセンスがまるで万華鏡のようにのぞくことができるのです。それもすごく斬新な理解ばかりで、どんな教科書にも書いていません。たとえば、お花や書道でいう「真行草」も、普通なら、真行草とだんだんとカジュアルにくずしてゆくという解釈なのに、橋本さんにかかれば、「真行」はパブリックなもの、「草」はプライベートなもので対立構図にあるという新解釈になるのです。それがいろんな例を引いて図式化されてとてもわかりやすいのです。たまたま、古本屋さんで見つけたので、いまでも本屋さんには置いているかどうかわかりません。ひょっとすれば文庫本になっているかも。ぜったおオススメです。

(女子大生20歳、国文学専攻、卒論は源氏物語論の予定)

※和の学校注:こちらの本は絶版になっていました。

 
『心−日本の内面生活の暗示と影響』ラフカディオ・ハーン(岩波文庫)

日本っていいな。日本人っていいとこもあるんだ。
泣ける話しがあったり、神妙になったり、笑ったり、ラフカディオ・ハーンって日本人以上に日本人なのですね。
『心−日本の内面生活の暗示と影響』を読んで、日本人であることに自信がつきました。
ラフカディオ・ハーンさん、ありがとう。
なんか日本ってつまんないナーって思っている人。これは絶対おススメですゾー。 わたし、もう海外旅行やめます。国内旅行一本にして、八雲を探して、松江に来週行ってきまーす。

(OL、24歳、旅ずきの女)
 
『毎日の言葉』柳田国男(角川文庫)

「和の学校」ホームページはたいへん役に立っています。これからもどんどん充実を図ってください。
私は日本に来て10年になるフランス人です。
最近読んだ日本の本でおもしろかったものをご紹介します。
柳田国男の『毎日の言葉』は、わたし達、ガイジンにとって新しい発見がある、とてもタメになる日本語の本です。
日本人がふだんなにげなく使っている「ありがとう」や「すみません」「いる・いらない」などの言葉に隠れている深い意味が解説されています。
「ありがとう」は、もともと神仏に感謝するときの言葉だそうですが、フランスのメルシーも同じく「神の恵み」という意味があると言われています。言語は違っても、考え方は同じなのですね。それも発見でした。
わたし達ガイジンに限らず、日本の人にも読んでほしい本ですね。

(フランス語教師、43歳)

※和の学校注:こちらの本は現在品切れとのことです。
「ながい坂」(上・下) 山本周五郎 著(新潮文庫)

私は、この本を読むたびに勇気をもらいます。
この本の中には、今の日本人が失いかけている「大切な生き方」が 散りばめられている気がします。 江戸時代末期の士農工商、老若男女、さまざまな人々の生き方を描いた面白さと、主人公とそのライバルの対照的な生き方が心に残ります。
名家の御曹司として生まれ、並外れた才能と美貌を兼ね備えて育 ちながら、その重みに耐えかねて身を持ち崩すライバル滝沢兵部。 一方、貧しい下級武士の子として生まれ、人生の「ながい坂」を苦し みながらも登りつづけ、 遂には城代家老となる主人公の三浦主水正。 物語の中、薬店主から金儲けのため、薬草園をやるよう勧められた老人が「天然しぜんに育つからこそ、薬草にはそれぞれの精分や効力がつく。朝の露、夕べの霧、澄みきった山の気、そして朽ち葉や落ち葉の中で育つからこそ薬効が備わる。人間も同じだ」と言うくだりが胸を打ちます。
今の日本人が(私も含めて)僅かの物しか持たずとも、逞しく、 心豊かな生き方ができればと念じています。

(生徒会NO16 女性)
 

「會津八一と奈良」 ―歌と書の世界ー 西世古 柳平 著  入 江 泰 吉 写真
(二玄社 刊) ISDN4-544-02014-X C0076 \2000E

會津八一氏の自詠自書114首と入江泰吉氏 の写真で、奈良の四季をあらわした本。
13年ほど前、友人と白毫寺に萩を見に行っ た折、入江氏が撮影に来られていました。 入江氏ファンの友人は奇跡がおきた如き喜 びようでした。 撮影の邪魔にならぬよう、その場を離れよう とした私たちに、 入江氏が 「せっかく萩をご覧になっているのに、お邪魔 して申し訳ありません。ゆっくりご覧になって ください」 と言われ、脚立をのけてくださいました。 今は亡き入江氏のお人柄が偲ばれます。 奈良といえば「會津八一」そして「入江泰吉」 です! (但し、私は文学や写真に詳しくありません) これから新緑の季節。 奈良は、美しいと思います。

(生徒会NO16 女性)

 
「万葉集」

例えば) 信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉とひろわむ こいまろび 戀は死ぬともいちしろく 色には出じ朝顔の花
など 31文字(みそひともじ)の中に、素直な心を 表現した1300年前の万葉びとは「凄い!」 と思います。 (現代人より一面すぐれているのかも。) 胸に響くうたが多く、「紐解く」まではいきま せんが、本を開くと時間を忘れてしまうこと もあります。

(生徒会NO16 女性)
 
「恋するハガキ絵」淡交ムック 遊美シリーズ 清水佳代著 篠原宏明写真
( 淡交社) 1300円(税込)

「絵手紙」という言葉が流行っていて、NHK教育とかでもちょっと前に番組があ りました。 でもちょっと「絵手紙」って私達より年齢が上の人にブームって感じがしていま した。 この本はそれよりもっとカジュアルで、現代的な「日本のこころ」を感じさせて くれます。
インターネットやメール、携帯電話…現代のコミュニケーションも、 それはそれで便利だし、それぞれの良さを持っています。 でも、一枚のハガキを書く(または描く)って今とっても新鮮で大切なことに思 えます。 一枚目だけがちょっとシンドイけど、 自分の机の上に色鉛筆や絵の具、筆やワリバシ (これがまた良い筆の替わりになるのです!これもこの本で教えてもらいました 。) がスタンバイされると、二枚目からは案外おっくうにならずに描けるものですよ 。 そうそう、たとえ描かなくてもこの本は眺めているだけでも癒されます。 一度手にとって見てください。だれかにハガキを描きたくなります。
(京都府宇治市 Rieko 39歳 会社員 )
 
「魔界都市・京都の謎」封印された闇の歴史を暴く 火坂雅志著 
(PHP文庫 )  552円(税別)

人間とはどうしようもないなぁ…というのがこの本を読んでの第一声であろうか 。 京都という都市は過去、人間の謀(はかりごと)や怨念、憎悪が渦巻き、 それを逃れるために、ありとあらゆる手段を使って「魔界封じ」を行っているの である。 この本を読んでいるとそれらが具体的に説明されていて非常に興味深い。
美しい観光案内の本が多い中で、最近この手の本が出てきているが、 これはその中でもわかりやすいと思う。 本文の最後に索引もついていて便利でもある。 京都は本当にこわいとろこなんだ、 どこになにがドロドロ〜と出てきてもおかしくない…というのがよくわかった。 京都に行ってみたくなる一冊である。
(横浜市 高橋A夫 45歳 会社員)
 

「能百番を歩く」 京都新聞社編 定価2000円(税別)

ずいぶん前に買った本です。今はいくらで出ているのでしょうか。 これは能の所縁(ゆかり)の地の案内書です。 もちろん、比較的ポピュラーな100曲の(正確には110曲) 能のストーリーも簡単に解説されているし、歴史的史実も知ることができます。
能の舞台の写真だけではなく、その所縁の地の写真も載っているので、 能を観にいくときも、旅にでる時もこの本を持っていきたくなります。 能に興味があまり無かった私ですが、旅が好きで、 「所縁の地」とかに弱かったのでついつい買ってしまいました。
それがきっかけで能を観に行くようになり、いまではすっかり能のとりこです。 この110曲を全部観ることが私の目標です。 誠実に作られた良い本だと思います。
(京都市 上賀茂在住 48歳 酒店経営)

 

「小倉百人一首」 大岡信著 (世界文化社) 定価1480円

誰でも子供の頃にはお正月を迎える度に百人一首のかるた取り遊びを経験していると思います。ある人は家族で、ある人は友達同士で。これほど老若男女問わず日本古来のゲームとして人々に親しまれている遊びも珍しいのでは。そして、それぞれの歌に隠された日本人の言葉と感性の豊かさ。
この本は、詩人、大岡信が現代人にもっともフィットする表現で、より難解な百人一首を身近なものとしてくれます。(歌人のエピソードも、小野小町、紀貫之はじめ楽しく読めます)
巻末の「かるたの遊び方」伊藤秀文氏(全日本かるた協会会長・九段)の大変わかりやすい競技としての百人一首も勉強になります。
手前味噌になりますが我滋賀県の近江神宮で一月に開催されます全国大会は有名です。
(滋賀県在住 男性



※和の学校注:こちらの本は絶版とのことです。

 

「千曲川のスケッチ」 島崎藤村著 (新学社文庫)

この作品は題名の通り、信州小緒地方の自然とそこに生活する人々を四季をとおして描いた散文です。これこそ日本でしか感じ、そして見ることのできない風景、 つまり和を感じとることのできる文によるスケッチブックです。私達が都会(京都は都会と言えないかもしれません)から離れ、郊外の田舎へドライブに行ったとします。「あー素晴らしい。自然はいいなあ。」などと言っても、その大パノラマを文章に置き換えてみることの難しさを実感することでしょう。この文章はまさしくスケッチで、小緒地方での自然や空気までもが今、目の前にあるように生き生きと写生されています。そして私達の心を千曲川の流れや浅間の山腹に連れて行ってくれるのです。私達は今の世にあって自然と共に過ごす時間を持つことを忘れてしまっています。せめてこのような本を読んで、四季を感じ、木々の間をそよぐ風の音を聞き、そしてまた友に便りの一つも描きたくなる心を沸き立たせる一冊であると思います。
(京都在住 30代女性)

 
東福門院和子の涙  宮尾登美子著 (講談社文庫 定価738円)
 
私は宮尾登美子の歴史ものが好きだ。歴史って教科書で習うとすごく難しくて、人間関係も全く分からない。教科書で習った時と違う視点で、その人にぐっと入り込める。また女性の行き方って、習わない。
和子は徳川家康の孫。家光と兄弟である。そして史上初めて、武家から朝廷に嫁いだ。
今でも京都には、和子が使用した物が残っている。それを拝見した時とても身近に感じ、また時代の重みに感動する。
いつの時代も一人の女性の思いは変わらないもの。
(滋賀県在住 20代女性)

 
「日本文化私観」坂口安吾(坂口安吾全集14、ちくま文庫)

ふだん、伝統文化についてあまり考えたことがない僕ですが、このエッセイによって、少し日本のことが気なりだしました。伝統文化なんかなくてもいい。日本精神なんか語らなくてもいい。日本をわざわざ発見する必要もない。なぜなら我々は日本人であるのだから、すでに日本文化を体現しているのだ。坂口安吾のそんな小気味いい文章は、伝統文化コンプレックスの僕をスッキリさせてくれました。だから最近逆に、日本のことが気になりだしたのです。
頭の固い伝統文化ファンや食わず嫌いの伝統文化コンプレックスの方におすすめします。坂口安吾のエッセイは、おもしろいですよ。この文庫全集にいっぱい入っています。

(会社員35歳、外人に日本文化が説明できない商社マン)
 
『日本の無思想』加藤典洋(平凡社新書)

欧米人と日本人の一番の違いは、日本人が「タテマエとホンネ」を使い分けることにある、とはよく言われるところ。特に日本の政治家は、「善処します」とか「前向きに考えます」のような発言が多い。公的な発言と私的な発言がまるでちがう。これは会社においても対人関係でも、言えることだ。
そんなことでは、日本人は今の国際社会では通用しない。仕事柄、外国の人と仕事することが多いので、はっきりと自分の意見を述べる英米の人間との違いを痛感している。
いつから日本人は、そんな気質を持つようになったのか。 かねてから不思議に思っていたが、そのことに真っ向から取り組んでいるのが、この本だ。政治家は、この本を読んで反省してもらいたい。

(会社役員、55歳、輸入業)


 

『風雅の虎の巻』橋本治 (作品社)

国文学を専攻している学生です。『枕草子』や『源氏物語』など橋本治の日本古典現代語訳を読んでいるうちに、橋本ファンになりました。それでこの本に出合いました。あけてびっくり。小説、映画、演劇、民俗芸能、能・狂言、短歌俳句、詩、日本画、音楽、料理、生花、茶の湯など日本文化についてエッセンスがまるで万華鏡のようにのぞくことができるのです。それもすごく斬新な理解ばかりで、どんな教科書にも書いていません。たとえば、お花や書道でいう「真行草」も、普通なら、真行草とだんだんとカジュアルにくずしてゆくという解釈なのに、橋本さんにかかれば、「真行」はパブリックなもの、「草」はプライベートなもので対立構図にあるという新解釈になるのです。それがいろんな例を引いて図式化されてとてもわかりやすいのです。たまたま、古本屋さんで見つけたので、いまでも本屋さんには置いているかどうかわかりません。ひょっとすれば文庫本になっているかも。ぜったおオススメです。

(女子大生20歳、国文学専攻、卒論は源氏物語論の予定)

※和の学校注:こちらの本は絶版になっていました。

 
『心−日本の内面生活の暗示と影響』ラフカディオ・ハーン(岩波文庫)

日本っていいな。日本人っていいとこもあるんだ。
泣ける話しがあったり、神妙になったり、笑ったり、ラフカディオ・ハーンって日本人以上に日本人なのですね。
『心−日本の内面生活の暗示と影響』を読んで、日本人であることに自信がつきました。
ラフカディオ・ハーンさん、ありがとう。
なんか日本ってつまんないナーって思っている人。これは絶対おススメですゾー。 わたし、もう海外旅行やめます。国内旅行一本にして、八雲を探して、松江に来週行ってきまーす。

(OL、24歳、旅ずきの女)
 
『毎日の言葉』柳田国男(角川文庫)

「和の学校」ホームページはたいへん役に立っています。これからもどんどん充実を図ってください。
私は日本に来て10年になるフランス人です。
最近読んだ日本の本でおもしろかったものをご紹介します。
柳田国男の『毎日の言葉』は、わたし達、ガイジンにとって新しい発見がある、とてもタメになる日本語の本です。
日本人がふだんなにげなく使っている「ありがとう」や「すみません」「いる・いらない」などの言葉に隠れている深い意味が解説されています。
「ありがとう」は、もともと神仏に感謝するときの言葉だそうですが、フランスのメルシーも同じく「神の恵み」という意味があると言われています。言語は違っても、考え方は同じなのですね。それも発見でした。
わたし達ガイジンに限らず、日本の人にも読んでほしい本ですね。

(フランス語教師、43歳)

※和の学校注:こちらの本は現在品切れとのことです。


以下は上方芸能評論家の広尾晃 さんの投稿によるものです。

「市井の活字中毒者が食べるように読み、歩くように読んだ本のうんちく。
私的書評ゆえ役に立つとは限りませぬ 」

木造校舎の思い出」芦澤明子 情報センター出版局
関東編 西日本編の2冊がある。写真は西日本編

ここには「日本の教育の姿」が映っている。

「和の学校」のポスターをごらんになったことがあるだろうか。古びた木造校舎の廊下が低いアングルでとらえられている。これは広島県吉田町の郷野小学校の校舎。(ちなみに横の『木造校舎の思い出』の表紙も同じ郷野小学校)30歳以上の年齢の人ならば、この写真に郷愁を覚えることだろう。芦澤明子さんの写真である。

芦澤さんは日本で数少ない女性のムービーカメラマンとして活躍中。

一方で芦澤さんは木造校舎に限りない愛情を抱き、全国の校舎を撮影している。今ではすでに取り壊されて存在しない校舎がある。他の施設に転用された校舎もある。芦澤さんの取り組みは、貴重な文化財を映像として保存する活動でもある。

しかし、芦澤さんは郷愁だけで木造校舎を追いかけているわけではない。近年は学校の建て替えに際しても、効率優先の鉄筋校舎ではなく、木造校舎を建てる地方が増えている。もちろん、その校舎は旧来の古い木造と同じではなく、新しい考え方やデザインが取りれられている。芦澤さんはそうした新しい木造校舎にも美しさを感じ、フィルムに収めている。

学校の校舎は単なる建物ではない。使われている木材にも、建築、彫刻にも郷土の技術や文化、自然の特色が活かされている。大人たちが我が子に寄せる思いが込められている。明治以来の日本の進展を支えてきた教育立国の原点がここにある、といっても過言ではない。芦澤さんは、新旧の木造校舎を通して、日本の教育の姿を撮影していると言ってもよさそうである。
 
 
「宰相吉田 茂」高坂正堯  中公叢書 中央公論新社 
偉大なリアリストを通して見る日本

高坂正堯といえば、「保守反動」。そんな印象があった。何しろ「修身」の復活を唱えた高坂正顕の子だし、保守政治を常に擁護してきたし。でも、ソビエト崩壊後、左右の対立軸が見えなくなってから、その著書をじっくり読んでみると高坂正堯のどこが「保守」で、どこが「反動」だったのかわからなくなってしまう。あるのはしたたかで、冷静な視線だけである。

この『宰相吉田茂』は、高坂正堯の出世作だ。若干30歳にして戦後最大の保守政治家の本質に迫った。そして吉田茂を描くことで、日本の近代を描くことに成功した。吉田茂は「ウルトラワンマン」でもなく「ウルトラコンサバ」でもなく、「ウルトラリアリスト」だった。イデオロギーや安直な正義感に惑わされることなく、目的に向かってしたたかに動く。「国益」の2字のために、アメリカ相手に交渉術の限りを尽くす。英国で身に付けた外交官としての実力を、戦後日本の復興のために最大限に生かした。そこにヒトラーの魔性を戦前、ただ一人指弾しつづけ、首相就任後は英国勝利に向けて国民を一つにまとめあげたチャーチルに通じる胆力と、人間としての大きさ、品格を感じる。

翻って、高坂正堯自身もしたたかなリアリストだった。イデオロギーや「かくあるべし」論に凝り固まった論敵に、冷水を浴びせ掛けた。だから嫌われたのかもしれない。

日本の自動車がアメリカになだれをうって輸出され、「自動車摩擦」が起こったときに、高坂は「囲碁」を例えに出した。囲碁好きのおやじさんが若者に囲碁を教える。若者が腕を上げてくる。おやじさんは、一目落ち、半目落ちで若者と好勝負をしているうちは機嫌がいいが、真剣勝負でも勝てなくなってくると機嫌が悪くなり、あれこれと難癖をつけてくる。人間なんてそんなものだ。これをあのもっちゃりした関西弁で聞いていると、肩に入った力が抜けるような気がした。リアリストの真骨頂である。

高坂正堯のこうした冷静な視線の背景には、確かな「史観」がある。人間は過去に学び、歴史に学ぶことなく未来を見つめることはできない。その自明の理がある。ある意味で高坂正堯は司馬遼太郎に近い存在だったのだなあと思う。

未曾有の混乱が続くなか、私たちは高坂正堯も司馬遼太郎もいない時代に生きている。リアリストの視線を誰に求めればよいのだろうか。
 
「寛政重修諸家譜」 続群書類従完成会
全25巻

これは、江戸時代の「サラリーマン物語」だ。

江戸時代は世襲社会である。父の仕事を息子が受け継ぐのがあたりまえにな
っている。それだけに、家系図は現在とは比較にならないほど重要だ。江戸幕府は直参武士の家系図集を何度か編纂しているが、その中で最も整備されているのが『寛永諸家系譜』とこの『寛政重修諸家譜』だ。この膨大な系譜集はちょうど19世紀のはじめの刊行、幕藩体制に制度疲労が見え始め、幕末に手が届こうという時代だ。

歴史家にとってこの本は基礎史料中の基礎史料と言ってもよい。ページを開ければ大名、旗本、御家人の家系図がびっしりと書き込まれている。さだめし無味乾燥の事実の羅列であろうと思われるあなた、ぜひ、仔細に見てほしい。実に味わい深く、面白いのである。

戦国時代の荒々しい気風が残る徳川幕府草創期の武士たちの人生は華々しい。徳川家康のお側近く仕え、敵の首をいくつも上げた者がいる。城の守備隊として切腹して果てたものがいる。ときには主君にたてついて出奔し、武芸の力で再仕官した猛者もいる。みんな骨太で男らしい。

それが、100年も経って、太平の世の中になると武士たちのスケールはみるみる小さくなる。多くは元服をすると将軍にお目見えをし、親の職を継ぐ。年を取れば永年勤続でお上から黄金やら時服やら菓子を賜る。それでおしまいである。さらに、この家系図は幕府の公式資料だから、個々の不祥事もあまさず書かれている。実質的に何の仕事もない「小普請役」が続き、退屈のあまり自宅で博打を開帳してつかまったもの。将軍が御成りの席で居眠りをして隠居させられたおじさん。庭の警備役をおおせつかって、暇つぶしに木に登っていて将軍様に見つかって改易(首)になったもの。刀を質に入れて流してしまい、しどろもどろの言い訳の挙句、江戸を追放されたもの。

これらが文語調で几帳面に書かれている。興趣が尽きない。まさに「小人閑居して不善を成す」だ。その挙句、旗本、御家人たちは数十年後に幕末の騒乱で惰眠から叩き起こされ、多くは没落していくのだ。
なにやら、身につまされる感じがいたしますなあ、ご同役!
 

百物語」 杉浦日向子 新潮社刊(全3冊) 写真は3冊が一つになった文庫版
本当に怖い話とは?


今、「リング」とか「らせん」とか、ホラー小説やその映画の類が猖獗を極めているが、あの恐怖は私に言わせれば、化学調味料やら着色料やらをまぶしたてたものである。仔細に見てみれば、存外大したことはないのではないかと思う。(でも、わざわざ見せてくれなくてもいいですよ)

私がこれまで読んだ本、漫画、映画、TVでいちばん怖かったのはこの
「百物語」の其の十八「亡妻の姿の話」である。夜、思い出すと眠れなくなる。思うに、恐怖とは我に危害が迫っているとか、怨みつらみを呑んで死んだものが祟るとか、そんな具体的なものではないと思う。何か説明がつかないもの、心の端にひっかかって一向に消えないもの、それが時を追ってずんずんと大きくなっていく、そんなものが本当に恐ろしい。

この「百物語」は江戸時代の市井人の心に蟠ったそんな「謎」「恐れ」をそのまま漫画にしている。杉浦の非凡は、古人の気持ちに全く手を加えず、謎は謎として、淡い恐怖は淡いままで、さらりと描いて見せたことである。漫画が到達した洗練の境地の一つがここにあると言っては誉め過ぎだろうか。

 

「日本の苗字ベスト10000」 村山忠重他編 別冊歴史読本64 新人物往来社  
佐藤さんだけで200万都市ができる?

あまり知られていないが、依頼者の家系を調査して家系図を作ってさしあげるというビジネスがある。某企業の社長がウン十万円かけて作らせたものを見せてもらったことがある。巻物の形をしたご大層な文書を繰っていく。祖父、曽祖父程度まではいろいろ書くことがあるが、五代ほど遡ったところから急に記述の量が少なくなり、中世は名前だけとなる。そのくせなぜか戦国時代とか、平安時代とかところどころに「織田信長の馬廻りだった」とか「菅原道真が九州に流されるときに浜まで見送った」とかやたら具体的な記述がちりばめてあって、思わず笑ってしまった。もちろん、最後は○○天皇にいきあたる。家系図作成という仕事、サービス業なんだなと思った。

日本人はルーツについてかなり関心があるくせに、その調査方法はほとんど知らない。また本当に探ってみようとする人も稀である。お隣の韓国は本貫(出身)を同じうする同姓の人はどこまで時代が下ろうとも親戚であって、結婚することは社会通念上許されていない。それが原因の心中沙汰などもある様だが、それだけに家系図は家の最も大切な宝になっている。歴史は韓国の人々にとって今も重要なファクターなのだ。

この「日本の苗字ベスト1000」は、全国の電話帳をもとにしたデータベースから九千万件を超す苗字を抽出し、地域別にランキングしたものである。全国1位は佐藤(推定191万人)、2位は鈴木(169万人)。東京は鈴木、佐藤の順。京都は田中、山本、沖縄は比嘉、金城。なぜこの地域にこの苗字が多いのか、歴史的背景をたどるだけでは殆ど説明がつかないのも興味深い。そんなこと知ってどうなるんだ、と言ってしまえばそれまでだが、歴史に無関心の日本人が勝手に繁殖した結果がこうなったのだなあ、という感慨を抱いた。暇つぶしには格好である。

 

「日本仏教十三宗ここが違う」 大法輪閣
仏教は現代社会にどうコミットメントするのか。
 
「宗論はいずれ勝っても釈迦が恥」という句がある。釈尊からはじまった仏教は今やおびただしい数の宗派に分かれている。たれが正しいか論争すること(宗論)は、争いを戒めた釈尊の教えにそむくことであり、どの宗派が勝っても釈尊の恥になる、という意味である。しかしながら、奈良仏教、天台、真言、浄土、禅、日蓮と仏教は時代とともに次々と分派し、血で血を洗う抗争を続けてきた。イスラムの過激派タリバーンの蛮行を世界は非難するが、我が国の宗教も、かつては同様かそれ以上の破壊行為を行ってきたのである。

ある宗教学者は宗教の発生の過程を「反社会的グループとしての誕生」「弾圧、抵抗の歴史」「社会での存在確立」「体制側への順応」「衰退」と説明している。確かに、どんな宗教もはじまりは「異端」であり、その勢力が黙殺できなくなると既成社会の弾圧を受けるようになる。しかし、それを乗り越え、社会に受け入れられるとついには体制の一員となる。初期のころは信者を惹きつけるために「奇跡」をやたら起こしてみたり、他宗を論難したり暴力に訴えたり、過激である。やがてその教えが受け入れられるころには、教義は角が取れて丸くなり、表現もおだやかになる。他者、異教徒に対しても寛容になり、社会の大きな変革を望まなくなる。

これを踏まえるならば、今、ある宗教がどの段階にあるのかを知るメルクマールとして「他者、他教に対してどのような態度を示すか」を見るという方法がある。他宗を徹底的に攻撃し、破壊し尽くそうとするタリバーンはまさに「弾圧、抵抗世代」の宗教だ。今、盛んに近縁の一派を攻撃している日本の某宗派には「いや、お若いですなあ」と声をかけたくなる。

この「日本仏教十三宗ここが違う」が面白いのは、それぞれの宗派の代表的学者が自らの宗派の教義の説明だけでなく、「自分の宗派は類縁の他宗とどう違うか」を解説しているところにある。各宗派の学者たちは慎重に言葉を選んでいる。決して他宗を難ずることなく、紳士的な態度に終始し、その中で自宗を特色づけようとしている。日本を代表する仏教宗派は少なくとも「社会での存在確立」の時期を経て「体制側」になりつつあるということだろうか。私たちが日常、自分の宗旨に拘泥することなく人々と付き合えるのは、まさにこれら仏教宗派が「大人」になり、安心して信心できる段階にあるからだと言ってもよい。
しかし、逆にいえば「大人になった宗教」は、混迷の極にある現代社会に積極的にコミットメントできるエネルギー、情熱を失っているといえるかもしれない。社会を根底から変えねばヤバい、と多くの人々が焦るなかで、既成宗教は相談相手とはなっていないのではないか、カルト的な教団の勃然たる興隆はまさにその反転図なのではないか、と思えるのである。

 

「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」 鈴木 尚著 東京大学出版会  
「死」の意味をはからずも直視させられる本
 
筆者は日本人の骨を研究し、骨の形状から日本人のライフスタイルがどのように変化してきたかを追い続けている。江戸時代の人々が現代人よりもはるかに固いものを食べ、重たいものをかついできたことは、骨から見れば一目瞭然。しかし、大名や貴族の骨格は「これが同じ時代の日本人か?」と思えるほど華奢で、むしろ現代人に近い。これはもちろん、上流階級の人々の生活を反映している。

この本は鈴木尚の研究の頂点ともいえるもので、歴代将軍、その内室、伊達政宗などの有力大名の墓を調査した記録である。歴史上の人物の墓を調査するといっても、エジプトのピラミッドの話ではなく、古いものでも500年、新しいもので150年しか経っていない墓を開くのである。親族、子孫だってご健在である。いかに学術目的といっても墓を暴く行為に違いはない。その後ろめたさ、やましさがこの本に独特の怪しい気配を漂わせている。

二代将軍徳川秀忠、六代家宣、「あ、秀忠はこのあいだ大河ドラマで西田敏行がやった役だ」「家宣はいつだったか細川俊之が扮していた」そんな浅い連想は石室の蓋を開け、木棺の中を写した一点の写真で吹き飛んでしまう。納棺のときは威儀を正し、きらびやかに飾られたであろう遺骸は、数世紀を経て土色に変わり、副葬品は周囲に散乱している。秀忠の遺骸は上から覆われた蓋の重みで押しつぶされ、提灯をたたんだ様になっている。家宣の遺骸は着せられた束帯の中に埋まりこんでいる。

即身仏の写真を目にすることはしばしばある。求道の究極の形として生きながら仏になる道を選んだ修行僧の遺骸はそれはそれで壮絶なものだが、あくまで例外的なこと、と割り切って見ることができる。しかし将軍たちの遺骸は、どんな権勢を誇った人間でも死ねばあのようになる、という自明の事実を見るものに突きつける。多くの日本人にとって、死とは死者を棺に入れ、土に納めることで完了する儀式だが、実は土中で死は確実に人をモノへと変えていく。ここには我々が決して直視したことのない「死」の実態がさらされている。

記述はあくまで学術的で冷静である。二代将軍秀忠は、武人らしいがっしりした体躯だが、時代が下るとともに将軍たちの体は華奢になり、あごは細くなり、鼻梁は高くなる。貴族化の過程を一つの血脈でたどることができるのは興味深い。有名な和宮の遺骸には左手が手首から失われていた。これには正史に何らかの修正を迫る事実が隠されているのかもしれない。 この本は歴史に科学の冷静なメスを入れたという点でユニークな本だが、同時にはからずも、日本人の美しすぎる死生観に冷水を浴びせかけている。

 

「ふりむけば日本」 李 正子著 河出書房新社
「恨」の思想を誇りに変えて、眼差し高く生きる女性
 
筆者李 正子は、伊賀上野でおいしいコーヒーを飲ませる喫茶店を開いている。発せられる言葉はいつも極めて明快。ごく普通の女性であり、お母さんなのだが、たたずまいにはどこか北国の冬を思わせるような厳しさがある。

民族と出会いそめしは チョーセン人とはやされし春 六歳なりき

李 正子は伊賀上野で小さな町工場を営む朝鮮人の両親のもとに生まれ、地方都市に散住する異民族として孤独、偏見の中で多感な青春期を過ごす。民族が違うことを理由に失恋も経験した。日本名を本名に改める決断もあった。そんな折々の思いを短歌にし、朝日新聞に投稿していたのが歌人近藤芳美や道浦母都子らの認めるところとなり、昭和59年(1984)第1歌集『鳳仙花(ポンソナ)のうた』を刊行、現代の代表的女流歌人の一人となった。この本は李正子の半生を綴ったエッセイ集である。

イ・チョンジャまた李正子或いは香山 いずれが名かと子が問いかける

ソルジェニーツィンさえ甘やかなバリトンの波動 硝子のむこうは夜霧

その歌は決して悲痛なだけではない。ときに少女時代の感傷を鮮やかにすくいとってみせ、ときに社会に鋭い疑問符を投げかける。闊達、明晰。民族の強い自覚と、その自分を冷静に客観的に見ることのできる賢さを併せ持っている。ひとことで言えば剄い(つよい)女性の美しさを感じる。 朝鮮民族は「恨(ハン)の民族だ」と言われる。大国中国の圧力を背後に常に受けながら(後には日本に蹂躙を許しながら)、民族としての衿持、自立の精神を必死に保とうとする人たちの思いがこの一語にこめられている。李 正子にも「恨」は感じられるが、それは剥き出しではなく、上等の布で丁寧にくるまれている。それは李 正子にとって民族の誇りであり、アイデンティティである。これを大切に抱きつつ、彼女は日本の地で背筋を伸ばして、眼差し高く生きていくのだろう。  

※和の学校注:こちらの本は現在品切れとのことです。

 

「海峡を越えたホームラン」 関川夏央著 双葉社
「わしらは僑胞(きょっぽ)いう名の外人ですわ」
 
昭和57年(1982)、韓国でプロ野球が始まった。私はたいへん注目していた。その年の首位打者は前年、日本のロッテをお払い箱になった白仁天が4割を超す高打率で獲得した。つまりそれくらいレベルが低かったのだが、それだけにスポーツの草創期につきものの超人伝説や武勇伝が飛び出しそうで、(沢村や川上や景浦の伝説みたいに)興味津々だったのだ。

しかし、情報はなかなか流れてこなかった。1年以上たって『週刊漫画アクション』に連載された関川のこのルポが最初のまとまった読み物だった。はじめは浅い興味で読み始めたのが、回が進む度に身を入れて読むようになった。浅い興味が深い関心へと変わっていった。

韓国へ渡った在日韓国人のプレーヤーたちは、それほど深い思いがあったわけではない。「どこへ行っても野球は野球だ」自分の母国、そしてはるかに野球後進国でプレーするのだから、「一丁向こうのやつらに野球を教えてやっか」といったところだろうか。しかし、ことはそんなに簡単ではなかった。生活文化の違い、とりわけ食文化のギャップが彼らを苦しめた。高給取りの彼らへの好奇とやっかみの視線も突き刺さってきた。不必要な気負いと焦りが選手の体を固くした。もともと地力の違いはあったから、彼らは環境に馴染むとともに好成績を挙げ出すようになった。しかし、そのときには彼らは外国人であることをはっきり自覚していた。「わしらは僑胞(きょっぽ)いう名の外人ですわ」

ある時期まで、日本の韓国論はどうしても屈折したものにならざるを得なかった。原罪を背負ったような重さ、不自然さがあった。(それは当然のことだったのかもしれないが)関川のこの本は、月並みな表現だが人をそれぞれ原寸大でとらえ、そのまま描こうという自然さがあった。これを契機として、こうした自然体の韓国、朝鮮論が出されるようになったと記憶している。

関川はなおも数冊の韓国、朝鮮に関するドキュメントをものにしたあと(「東京から来たナグネ」「ソウルの練習問題」などいずれも秀作)、再び劇画の原作の世界に戻り「坊ちゃんの時代」を世に出している。その独特のリアリティとこだわりを感じさせる歴史認識、時代感覚は、近くて、とてつもなく遠い隣国への骨がらみの取材で培われたものかもしれない

 

「聞く猿」 ナンシー関著 朝日新聞社
それって、見る価値があるのか?
 
私はナンシー関を尊敬している。世の中を見るときの一番の基準にしている。そういうと笑われるかもしれないが、真剣にそう思っている。彼女はいろいろな雑誌にコラムを書いている。お手軽なコラムニストという役どころだが、今どき、これほど鋭く、ダイレクトな批評はほとんどない。

ナンシー関は、芸能界や文壇ともほとんど交渉を持っていない。ただ自室のテレビの前に座ってじっと世間を眺めているだけである。しかし明晰な人間が予断をもつことなく世間を眺めれば、マスコミや社会の異臭は自ずと匂ってくるのだろう。むしろ「何も知らない」ということが大切なのかもしれない。

彼女の名言、至言は数知れない。いくつか上げてみよう。「歌手は歌うのが仕事、俳優は芝居をするのが仕事、ならばテレビで私生活をさらしているだけのタレントはただ“生きる”のが仕事か?そんなもん金払って見るのか?」「今の世の中、有史以来の『感動』ブームだ。感動がはしたないほどの貪欲さで渇望されている」「松方弘樹や梅宮辰夫などの大物タレントが釣りやショッピングを楽しむ番組、あれ誰のためにやってるんだ、接待番組じゃないのか」

特にバブル崩壊後、人々は物質的な満足に飽き足らず、何か精神を満足させるもの、高尚なものを求めるようになった。感動ブームやおたくブームなどもこれで説明できると思うが、悲しいかな土台となるべき教養や、モノを見る目が備わっていないだけに、それは自ずと表層的でスノビッシュなものにならざるを得ない。この大衆のニーズに過剰にこたえる形でテレビはバラエティやドキュメントと称する番組を肥大させてきた。スポーツ番組までもが感動を“予約”するバラエティと化した。(例えば、高校バレーのコートで金髪の不良どもが飛んだり跳ねたりして、それに不良少女どもが嬌声を上げるとかいうのは、あたかも刺身にケチャップを塗りたくるような蛮行だと思う。)ナンシー関はそうした恥ずかしい大衆とマスコミに鋭い突っ込みを入れるのである。
最近数ヶ月、ナンシー関の筆鋒に勢いがない。がんばってほしいなあ、ナンシーさん。

 

「近代能楽諸家列伝」 穂高光晴  能楽出版社刊
あまりにも激烈な、あまりにも正直な
 
腰巻には「明治から平成にわたる、役者、学者、評論家を網羅し、詳密な調査と鋭い論評を加えた画期的な『能楽人名辞典』」とある。この宣伝を信じて、教養を高める目的で、また能や狂言について深く知りたいと思ってこの分厚い本を買った人々は、一読して卒倒したのではないだろうか。筆者穂高光晴は静岡生まれ。能楽小鼓方幸流の宗家、幸悟朗に師事。東京大学国文科、同大学院を出て教師生活のかたわらプロの能楽師として立つ。以後60年余。80数歳となった筆者は、能楽界の長老であり、シテ、ワキ、狂言から囃し方、評論家に至るまでを批評しうる力量を有した文字通りの碩学である。

しかし、しかしである。いかに碩学であろうとも、長老であろうとも、ここまで峻烈に人を批評して良いのか。思わずそう叫びたくなるほど、この本は痛烈である。身も蓋もなくいえば、能楽に携わる人々を批判し尽くした「こきおろし帖」とでも呼びたい内容だ。もちろん、誉めている人もいる。実力を評価している部分も随所にある。しかし、批評の勢いがあまりに苛烈で、他はほとんど吹っ飛んでしまうのだ。 いくつか引用してみよう。ただし、恐ろしくて実名は挙げられません。

「名人の子には時々不出来な者が現れる。これもその一例。いわゆるお人よしで憎めない性格だが、迫力はなく、セリフや所作をよく間違えて、家元ではあるけれども皆に敬遠され、まさしく芸事には向かない気の毒な人。」
「(女流に対して)一通りの基礎技術を会得しているが、背丈も低く見栄えはしない。同門の○○子をいびって同門から追い出したという話、人間的にも問題があるようである」
「(評論家に対して)私の一生の中でも、最も嫌な意地悪学徒」

これまでいくつか能楽関係の本も読んでみた。しかしこの本はそれらとは異質である。これまで、まったく知りえなかった能楽師たちの人間臭い生態に一挙に触れて、膨満感を感じた。 これは多分、純粋な正直さが書かせているのだと思う。半世紀以上も一筋に歩んだ人が、一生の思いを吐き出した結果なのだとも思う。
ところで、門外漢の私にはわからないが、これ、能楽界では「あり」ですか?

※和の学校注:こちらの本は絶版です。

 

「暮らしと物価 大阪百話」 編集委員会 大阪市市民局生活文化部消費生活課
消費が“夢”だった時代があった
 
世の中はデノミネーションが進行している。生まれてこの方、右肩上がりの経済成長とインフレーションしか経験してこなかった私たちにとって、これがどんな意味を持つのか、生活にどんな影響があるのか、はかりかねているところである。モノの値段は確かに凄まじく落ちている。それは本当に良いことなのか。

百円ショップが出店すると、その周囲の店は軒並み閉店に追いこまれる。ある人は「市場を荒らされた」というし、ある人は「消費が消費者のもとに帰ってきた」という。価格破壊が進むことの悪い面を一つ取り上げるとすれば、人々がモノに抱いた価値観が価格破壊によって一緒に破壊されるということがある。例え同じ機能をもつとしても、苦労して小遣いを貯めて買った5万円の時計と、500円の時計を同じように大切に扱うことができるだろうか。人心の荒廃がデノミネーションによってさらに加速するのではないかと思う。

この本は大阪市が昔の大阪の庶民生活を知る資料として出版したものである。アイスクリームから私鉄料金、銭湯からランドセルまで、市民生活に関する多種多様なモノ、サービスの価格変遷が実に丁寧に調べられている。これを読むと、何かを買う、何かを見るという消費行為一つ一つにもの喜びしていた昔の庶民がいとおしくなってくる。何に金を払っているのかわからないうちに、モノと情報に埋もれていく私たちの生活は本当に豊かになったといえるのだろうか。

 

「巨怪伝」 佐野眞一 文藝春秋
阪神大震災を予言したジャーナリスト
 
昭和天皇の崩御からバブルの時代を最もよく描いたのは猪瀬直樹だと思う。「ミカドの肖像」「土地の神話」などの連作は、63年余という長い昭和時代の意味を見つめなおし、この時代が日本と日本人の心をどう様変わりさせたかを、象徴的なエピソードを連ねる形で描いている。天皇の崩御のたびに山里から宮城へと参じた「八瀬童子」の話は、古代の人々が土中から現代に蘇ったような不思議な興奮を覚えた。ひとことで言えば、猪瀬直樹は時代遷移の予兆をいくらかの高揚といくらかの不安をない交ぜにした、高調子で歌った作家として記憶されるべきだと思う。

しかしその「高調子」の歌が、続いて到来したバブル崩壊後の混迷の時代の警鐘であったとは、当時、だれもが予想し得ないことだった。実態経済をはるかに超えた消費拡大、投資拡大、投機拡大が、日本中の企業や人々の金銭感覚、価値感覚を狂わせ、ひいては社会を混迷の底へと突き落とす結果となったのだ。今も続くこの暗鬱な時代を最もよく描いているのは、佐野眞一であろう。佐野はそれまでもバブルの時代に暗躍した怪しげな紳士たちを描いた『昭和虚人伝』などで知られていたが、ここに掲げた『巨怪伝』を皮切りに1000枚を超す大型のノンフィクションを次々と発表し、現実社会に大きな衝撃を与えた。

佐野が次に何を描くのか、は大げさにいえば日本中が注目している。 佐野の存在を世間に広く知らしめたのはこの『巨怪伝』だった。この作品は正力松太郎という警察官僚上がりの実業家が、その飽くなき権力欲で日本国家と日本人の意識の根部に食い込んでいくさまを描いている。プロ野球、プロレス、テレビ、東京タワー、原子力発電、これらがすべて正力の実質的な主導の下に生まれたという事実に直面するとき、私たちは、見えざる力の掌の上で踊らされていたのではないか、という漠たる疑問を抱く。

何より佐野の不気味なまでの凄腕を世間に印象付けたのは、この本のあとがきだった。佐野は正力松太郎が権力への道を登り始めた大正初期と、現代(1994年)の状況が驚くほど酷似していることを指摘し、「これほど似た状況にある以上、大正期のエポックを画し、江戸を東京に変えた関東大震災クラスの大地震が、近々、きっとくるに違いない。執筆中、そんな物騒な考えに、しばしば襲われた」と書いている。まさにこの本の発行から2ヵ月後、マグニチュード7.2の阪神大震災が関西地区を襲ったのである。私はそのとき、中国の「易姓革命」という言葉を思い出した。社会が乱れ、為政者が堕落すると天は怒りを発し、天変地異まで動員して支配者の姓を易め、支配者を代えようとする(王朝の交代である)、それが「革命」だ。佐野はそれを予見したのではないか、と思った。

ダイエー中内功の半生を描いた(というより暴いた)『カリスマ』、エリートOLが都会の陥穽で惨死した事件の周辺を“えげつない”リアルさで描いた『東電OL殺人事件』、小渕首相の死に前後して発売された(ここでも佐野の凄腕が光る)『凡宰伝』。こうした連作の底に常に敷かれているのは「バブル以後の日本人の精神の極端な劣化は、どうして起こったのか」という疑問ではなかったか。これらスキャンダラスな連作をものにする一方で、佐野は宮本常一と渋沢敬三を描いた『旅する巨人』や、『渋沢家三代』などで、現代のそれとは似て非なる往時の実業家、学者たちの高らかな精神を描いている。この二つの作品群を読み進むなかで、現代の予言者にして預言者、佐野眞一の眼差しの先に何があるかが明らかになってくると思う。

 

「負けるな紙相撲」 徳川義幸 六興出版
誰のためでもない、ただひたすら自分の愉しみのために。
 
著者は尾張徳川家の分家に生まれ、学習院を出て企業に就職、一時は会社社長にもなったがことごとくうまくいかず、喫茶店、飲み屋の主におさまっている。起業家精神や事業欲のようなものはない。しかし現在の境遇を悲嘆することもない。淡々と浮世を生きているが、ただ一つ、異常な熱意で取り組んでいるものがある。それが「紙相撲」。いい年齢をした大人が紙で作った数センチの力士を、サンドペーパーの土俵に向き合わせ、とことんとことん戦わせる。アナウンスの声も自前である。勝敗の結果は厳格に記録、場所ごとに番付をつけている。筆者は弟(のちにブラジル移住)と昭和28年、16歳の歳から本場所を開きつづけている。このような情熱は、20歳を過ぎ、お姉ちゃんに血道を上げるような年頃になれば雲散霧散するのが常である。しかし、この若殿たちはそうではなかった。ますますエスカレートし、仕事そっちのけで力士の育成、本場書の充実に励む。

それでも筆者は人並みに結婚する。奥さんは当然、徳川家の御曹司と結婚したと思っていただろうが、当の亭主は紙相撲などという愚にもつかない趣味に熱中する男だった。以後、筆者は世間の偏見に加えて、妻の有形無形の弾圧にも耐えて紙相撲を続けることになる。圧巻は、紙相撲髄一の名横綱照の花の引退である。筆者はその日も深夜まで机の上に紙の力士たちをならべて稽古に余念がなかった。風呂上りのカミさんが机の横をすり抜けようとして裸の足の裏に何かを踏んづけた感触があった。足の裏には全身を複雑骨折した一人の紙相撲力士がくっついていた。これが名横綱照の花の最後。妻は言った。「アーラ、それは大変ねェ。悪かったわねェ。でも、わざと踏んだんじゃないわよ」

紙相撲は一時期マスコミの寵児となる。全国のデパートに巡業に出たり、テレビ出演が相次いだりした。しかし育ちの良い筆者はそれをビジネスにしようとは思わない。利用もされたが恨むこともしない。相変わらず喫茶店、飲み屋をやりながら、夜毎力士の育成に励んでいたのである。

ここには趣味の究極の形があるといっては言いすぎだろうか。誰に見せるのでもなく、何かを得るのでもない。自分と、同好の友だけのために、ひそやかに、しかし情熱的に愉しむ。大部分の人間には、こんなことはできない。趣味人としての才能がないからである。

後日談。この本が出たのは昭和63年(1988)のことだったが、紙相撲は今も健在である。60歳を越えた筆者は相変わらず理事長であり、紙相撲界の象徴と化しているが、今はなぜかタイ在住だ。そして紙相撲の世界を実質的に支えているのは30代から40代の壮年の男たちだ。私はもう一度エールを送りたい。 「負けるな!紙相撲」

 

「鮓・鮨・すし」すしの事典 吉野f雄 旭屋出版
すし屋へ走り出したくなる本  

筆者は先年物故したが、東京、日本橋の吉野鮨本店の三代目主であり、野口元夫の芸名で伊丹十三の映画などで存在感を示していた俳優だった。この本はすし研究の第一人者として知られた筆者が旭屋出版の『月刊 近代食堂』に連載していたエッセイをまとめたものである。

この本は全てがおいしい。試みに見出しを挙げてみよう。「握りずしとつけじょう油」「握りずしの味を左右するもの」「あと味、めしの量のほどよさ」「タネ別にみるすしのすべて」「東京・日本橋、トロ由来話」見出しからしてうるさ型の親父さんが弟子っこに話をするような、いい味わいがある。文章がまたいい。わかりやすくて、親切で、それでいて商売人らしい古風なゆかしさがある。文章も引用したくなった。昔の職人が、コハダに振り塩をする場面である。

《盆笊に花のようにならべたコハダに、左手で塩を外側に散らさないように、笊の横で受けながら、右手にさっとひとつかみした塩を、さながら花火があがったように散らされる。しかも、その塩は魚の隅々にまで美事に振り込まれているのだから驚く。》

この本は、すしにほれ込み、すしに一生をささげた男の記念碑的な本である。思うのは、この本に書かれているすしの醍醐味は、すでに戦前に完成されていたということだ。慎ましい筆者は今の風潮にそう目くじらを立てているわけではないが、すし屋がビジネスになり、すし職人がサラリーマン化する中で、すしをめぐる美しい風景は確実に失われている。素材の選び方にも、下ごしらえにも、客との接し方にも、道具の手入れの仕方にも、すべてこだわりがあり、美しさがあったようなすし屋は、絶滅しかかっている。あの志賀直哉の「小僧の神様」で描かれたようなすしへの憧憬は、グルメの時代、飽食の時代と言われる今、抱きようもないのが現実である。

 

「料理の鉄人」 扶桑社 フジテレビ
祭が終わってしまったあとで。  

今、古本屋やセルビデオ屋の店頭には「鉄人もの」の本やビデオがいくつもならんでいる。ビデオ1本100円、本は50円。私は一時期「鉄人」にはまり、土曜の深夜、贔屓の「探偵ナイトスクープ」に浮気をしてまで熱心に見ていたことがある。「和食の鉄人」道場六三郎のマグロ料理は、それこそ振るいつきたくなるほどうまそうだった。弱い「中華の鉄人」陳健一が負けそうになると、思わず声援をおくったものだ。「神田川」の大将が「関西料理界のドン」とよばれるのは「どうかなあ」と思ったが、確かにこの番組は虚構にせよ、料理をひとつの価値体系として組み上げて見せたことで大きな意味があったと思う。

恥ずかしながらこの本は定価で本屋さんで買った。しかし、今、この本を開いてみて、私は1ページも読む気がしなかった。粗製乱造気味だということもあるが、何より祭の後にのこのこやって来て、道端に落ちていたチラシをひらって読んでいるような空疎さを感じたのだ。あれほどまでに気張って、すさまじいまでの料理対決をやっていたのは何だったのか。あれも単なる番組だったというのか。

テレビがバラエティやドラマだけでなく、スポーツや芸術、文化まで消費しだしたのはいつごろからだろうか。象徴的には「F1」ではないかと思う。世界的なこのスポーツイベントに乗ったフジテレビは、スポーツとしてのF1よりも、その周辺のファッションやステイタス性をことさらに取り上げることで日本にブームを起こした。ときあたかもバブル絶頂期。「Jリーグ」もそんな気配ではじまった。そのあとは「K1」、さらに「鉄人」に至って、今度は虚構の価値体系を作りさえしはじめた。フジ系だけでなくTBSの「筋肉番付」、そしてTV東京系「開運なんでも鑑定団」「だれでもピカソ」などもそうだろう。

本来のスポーツや芸術、文化とは別のトーンでそのジャンルを取り上げ、実態とは別の価値体系を作ってしまう。私はそのこと自体は悪いとは思わない。それでそのジャンルに興味をもつ人が増えれば結構なことである。しかし、そこまでやっておきながら「視聴率が落ちたからやめます」「スポンサーが飽きたといってるからやめます」はないと思う。テレビが作ったブームで人生を狂わされた人々、そこまでいかないまでも一時期の熱狂から醒めて「踊らされていた自分」に嫌悪を感じる人々に、テレビは謝るべきだろう。少なくともこの手の番組がひとつ終わるごとに、テレビはまた一つ信用を失っている。

 

「有価証券報告書総覧」 大蔵省印刷局
企業の建前の間から見え隠れする本音
 
大きな本屋さんの政府刊行物のコーナー、またはビジネス書のコーナーに行くと色上質紙の表紙で巻いた薄っぺらい冊子が大量に並んでいる棚がある。薄っぺらい割に値段は千数百円と高い。これは店頭公開以上の企業(上場企業)が公開を義務づけられている有価証券報告書を集成した冊子である。どんな企業であってもすべて同じ順番、同じフォーマットで企業に関するあらゆるデータが収められている。この報告書の業績、決算報告に誤りがあると、それは粉飾ということになり、企業は罰せられる。最後のページには監査法人が監査した旨を重々しく記して終わっている。堅苦しくて無味乾燥、およそ文化とは無縁の書類のような気がするが、この冊子、一度その味を覚えると病みつきになるほど面白い。

まず、企業の沿革を見てみよう。ある企業は創業者が裸一貫で立ち上げたものである。最初は会社というよりも個人商店だったものが、成功してずんずん大きくなっていく。本社も田舎にあったのが都心へとせり出してくる。企業の買収もする。ときには、一度買収した企業をまた手放したり、へんな名義変更をしたりしている。何らかのトラブルがあったのだろう。名門企業の場合は、創業者が歴史上の人物だったりする。日露戦争などの事件で思わぬ貢献をしていたり、今はまったく別と思われる企業が、戦前にその企業から独立していたりする。まさに「企業に歴史あり」だ。

さらに深いのが役員一覧。極端に若い取締役がいて、社長と同姓ならば間違いなく御曹司だ。社長は学校も出てなくて、文字通り叩き上げだが、倅はいい学校を出て、留学なんかしてたりする。大した学歴ではないが、社長についで社歴が長い役付き役員がいれば、それは番頭さんだ。まったく異質の経歴、たとえば官庁の人が最近取締役に加わっていれば、それは天下りだ。銀行筋の人もしばしば見られる。こうした経歴も年齢もバラバラの面々が、ハラの中で違うことを考えながら社長を囲んで座ってる。そんなボードを考えると、人間くさいドラマが渦巻いていそうでわくわくする。

業績の報告も見ものだ。これは有体に言えば言い訳集なのだが、時代によって、また業績内容によって変化する言い訳が面白い。さらに、無味乾燥のはずの貸借対照表や業績表もいろいろ見ているうちにいろいろわかってくる。あ、この会社は業績不振のしわ寄せを広告費にしたな、とか、福利厚生費がやたら圧縮されてるな、とか。恐らく、プロが見れば粉飾決算なんかもわかってしまうのだと思う。

この冊子、株をやっている人や銀行筋、企業に営業アプローチをかける人には必須のものなのだが、無責任な立場から眺めてみると非常に泥臭い、生々しいものだということがわかってくる。特に不景気が深刻化してから、企業はますます人間くさく、本性を剥き出しにしつつあると思えるのだ。よろしかったら一度どうぞ。


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