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茶の湯
■茶の湯とは
茶の湯とは、本来、抹茶を飲み楽しむことです。 このシンプルな行為を楽しむために、さまざまな生活文化が発達しました。 茶室や庭など住まいに関する文化や茶道具を選んだり鑑賞したりする工芸の文化、また、茶事に出てくる懐石や和菓子をいただく食文化、お客さんを気持ちよくもてなすための点前作法の文化など、茶の湯は、一碗の茶を楽しむために、こうした趣向と工夫を凝らしてきました。 その茶の湯をさらに、精神な修養性や審美性を高めたものが、茶道と言われるものです。 ■
喫茶の起こり 喫茶の歴史は、中国から始まります。古くは薬用として、漢の時代から飲まれていました。 唐の時代には、磚茶(だんちゃ、茶の葉を砕いて固形に固めたもの)の方法で飲まれ、宋の時代に、葉を臼で挽いた抹茶の方法が一般的になり、禅の僧侶の間で親しまれていたようです。 9世紀の陸羽の「茶経」には、製茶法や茶礼などが説かれています。 抹茶は、日本には鎌倉時代に栄西禅師がもたらしたと言われています。 そして、その弟子の明恵上人が京都の栂尾に茶を栽培し、僧侶たちに奨励し、次第に広まっていきました。 ■
茶の湯としての発達 その後、抹茶は、僧侶の間から一般に普及し、南北朝から室町時代にかけて、公家や武家の上流社会で、酒宴と同じように楽しまれようになります。 そこから、日本的な趣向を凝らした「茶の湯」が発達してきます。 抹茶を楽しむ場も、連歌をおこなう「会所」といわれる場所から、「書院の間」に移っていき、東山時代になると、足利将軍が茶を愛好していたこともあって、点前作法やさまざまな道具組などが考案されてきます。 この時代は、まだ上流階級の遊びの域を出ていなかったと言われています。
■精神性を高めた茶道の成立 足利義政時代の村田珠光(むらたじゅこう1423〜1502)は、茶の湯の形式より茶を学ぶ心構えに重きをおきました。 一碗の茶を楽しむ中に、自分のこころの在りようや他人に対する礼や謙譲などの精神性を見いだし、「わび」の境地を説明したと言われています。 この珠光の後、茶の湯は大きく変わっていきます。 茶室・茶道具も次第に派手で華美なものから、精神性を尊ぶ質素なものが尊重されていきます。 茶室も書院の広間から小さな草庵の小座敷に移り、掛け物も禅僧の墨跡が重んじられ、茶道具もわびを感じさせるものが好まれました。 珠光の弟子筋にあたる武野紹鴎(たけのじょうおう1502〜1555)は、珠光のわびの精神をいっそう発展させ、わびを「正直慎み深くおごらぬさま」と定義づけをしました。 ■千利休による茶道の完成
武野紹鴎の晩年の弟子である千利休(せんのりきゅう 1522〜1591)は、茶の湯をさらに改善し、茶室や茶道具も利休の創意によってオリジナルなものが作られ、今日の茶道の基礎をかたちづくります。
■ 利休七則
利休以降は、茶道は武家社会にさらに広まりを見せ、大名茶人の古田織部やその弟子の小堀遠州を生み、彼らは、利休の精神をつぎながらも利休とはことなる風情の茶の湯に親しんだと言われています。 一方、千利休の系譜は、利休の孫である千宗旦(せんそうたん1578〜1658)が三人の子供たちに自分の茶を譲ろうと考え、そこから三千家が成立します。 代々の不審菴(ふしんあん)を三男宗左に継がせ、自分は末子の宗室と共に、同邸内に今日庵(あん)を建てて移り住みました。そして後に宗旦の二男宗守は京都武者小路に官休庵を建てました。 それぞれ表千家(三男宗左)、裏千家(末子宗室)、武者小路千家(二男宗守)と呼ばれ、いわゆる「三千家」を形づくっています。 その他、藪内流藪内家、遠州流小堀家、宗偏流山田家、江戸千家など多くの流派に分かれて発展し、今日に至っています。 写真:井上隆雄 畠山崇(濃茶薄茶の写真) |