| ■歴史 南北朝時代の頃、農村の民族から発展した田楽、寺社の祭礼と結びついた猿楽など、いろいろな芸能集団が芸を競い合っていましたが、十四世紀後半(室町時代)に大和猿楽の四座(観世・金春・宝生・金剛)の一つ結崎(ゆうざき)座の長、観阿弥が出て芸能界の第一人者になりました。 彼は猿楽の伝統である物真似主体の芸に、当時流行していた曲舞(くせまい)を取り入れるなど、改革を加え成功しました。 時の青年将軍足利義満は、観阿弥の人気にひかれ京都今熊野の能に足を運び、芸の素晴らしさとその子世阿弥の姿の美しさに大いに惹かれ、以後絶大な後援を与えるようになりました。 世阿弥は父の偉業を受け継ぎ、能を、幽玄を理想とする、より芸術性の高い歌舞主体の芸に磨き上げ、また今日まで残る多くの名作を生み出し、すぐれた能楽論を著すなど実技と劇作と理論が一体となった稀代の天才でありました。 室町後期には、謡(うたい)(能の詞章を囃子の伴奏なしに能から離れて単独に唄う)が流行し、町人階層にもひろく愛好されたようです。狂言もこの頃には形を整えていました。 信長や秀吉も能を好みましたが、とくに秀吉は熱狂的な愛好者で国家的規模で能を保護しまいした。 また、この時期は絢爛豪華な桃山文化の興隆期桃山文化の興隆期であり、豪壮な能舞台の様式が確立され、装束も一段と豪華になりました。 徳川幕府も秀吉の制度を受けつぎ、また新たに喜多流が一流樹立され、以来四座一流が幕府の式楽(儀式用の芸能)を担当するようになり、地方の諸藩もこれにならいました。 この頃これに協力する脇方、囃子方、狂言方の三役各流も確立しました。 この時代には武士の影響を受け、能に荘重、気迫のきびしさが加わったと思われます。 明治維新になり保護者を失った能は一時断絶するかに見えましたが、政府や皇室、財閥などの後援に復興し、多くの名人を輩出し、今日若い世代にも指示を得て、かつてない隆盛を誇っています。 |