
| 第一回 | 「力士の墓石が語るもの」 |
| 第二回 | 「異郷に消えた京都相撲」 |
| 第三回 | 「稀代の"熱血横綱"、大阪相撲を旗揚げする」 |
| 第四回 | 「お相撲さんのストライキ、大阪相撲を滅ぼす」 |
| 第五回 | 「大阪相撲、大リストラの嵐」 |
| 第六回 | 「引き分け、預かり、無勝負」 |
| 第七回 | 「横綱をめぐる東西(上)」 |
| 第八回 | 「横綱をめぐる東西(中)」 |
| 第九回 | 「横綱をめぐる東西(中の2)」 |
| 謹白 | |
| 第十回 | 「横綱」をめぐる東西 (下) |
| 第十一回 | 相撲の噺、噺の相撲 |
| 大相撲の番付はどこまで遡ることができるのか?宝暦7年(1757)10月場所である。また、星取表は宝暦11年(1761)10月場所から残っている。250年近く、途絶えることなく競技者のランキング表と勝敗記録を発表しつづけるスポーツは恐らく世界に例がないだろう。宝暦7年10月の番付最高位東大関は佐賀県鳥栖市出身の雪見山堅太夫、平成14年3月の番付最高位東横綱は、アメリカ出身の武蔵丸光洋。二人の間には時空を超えて同じ競技の第一人者としてのつながりがあるのである。
しかし、大相撲の懐の深さはこれにとどまらない。このはるか以前から、相撲は武芸として、神事として、また興行として大きな組織で運営されてきた。芸能、文化とは異なり、相撲はその興隆期から江戸、関東で盛んだった。最新の研究では、江戸相撲の興行は、上方よりもかなり早く、江戸時代の初期、17世紀には行われていたようである。(なぜか番付は残っていない)おくれて元禄時代(18世紀初頭)から上方でも相撲興行が盛んにおこなわれるようになる。江戸時代中期からは、江戸をはじめとして大坂、京都、名古屋など主要な都市には相撲の会所(運営組織)が設けられ、番付が作られ、興行が続けられてきたのである。ちょうどイチローが日本のプロ野球を飛び出して大リーグに武者修行に出たように、当時の力士は出身地近辺の相撲興行だけでなく、こうした相撲どころを渡り歩き、力試しをし、名前を挙げていった。 江戸時代後期には実力的にも、規模的にも江戸の相撲が他の地域を圧倒するようになる。これは、力士の主要なパトロンが大名であり、強い力士は藩お抱えとして武士の身分を許され、国許と江戸を参勤交代で往復する大名に帯同せざるを得なかったために、地方の相撲には出場できなくなったことが大きいだろう。また、「横綱」という概念を創出した吉田追風(吉田司家)などの卓抜なプロデュースよって、江戸の相撲自体が将軍家のバックアップを得たことも大きかっただろう。 明治に入って、東京と上方や他地域との格差はますます大きくなっていく。東京に高砂浦五郎、初代梅ケ谷藤太郎(雷)、常陸山谷右衛門(出羽の海)という傑出した指導者が現れ、「裸芸者」と蔑まれた境遇からスポーツへと急速に変革が進んだのに対し、地方は力士とばくち打ちの区別がつかないなど、旧態依然とした形態を脱しきれなかった。明治後期には京都相撲が解散、続いて名古屋相撲も消滅、そして大阪相撲も昭和2年には東京に吸収合併されたのである。象徴的なことは、初代梅ケ谷、常陸山はともに大阪、名古屋という地方相撲からスタートして、東京相撲に身を投じたことである。
それにしても、今、大阪にほんの七十年前まで独自の相撲協会があったことは、ほとんど忘れ去られている。恐らく、一般の人よりも事情に通じているであろう老舗古書店の主に尋ねても「さあ、わてらの子供の頃は玉錦、男女ノ川(いずれも東京相撲の横綱)だしたなあ」と答えるばかりである。 このコーナーは、当面、大阪、京都相撲が往時どんな姿であったのか。江戸、東京とどのような関係であったのかをたどっていくことにしたい。それは、文化の探訪といった高尚なことではない。少し前まで誰もが知っていたであろうわが町の相撲の姿を、もう一度「思い出して」みる作業である。 |