くだるくだらない物語

 

第一回

三人の三木助

 

昭和56年(1981)2月26日、前年に先輩二十五人を飛び越して真打に昇進し、日の出の勢いの春風亭小朝が大阪で独演会を開いた(厚生年金中ホール)。小朝の本格的な上方での独演会はこれが初。二十六歳の小朝は、恐らくは練りに練ったであろうマクラ(前ふりの漫談)をたっぷりと振り、若い女性の多い客席に何層もの笑いの波紋を起こした。これで彼の成功は約束されたようなものだ。「明烏」「子別れ」という純然たる江戸落語を大阪の聴衆に堪能させた。

小朝に比べればインパクトははるかに小さかったが、この日、大阪の聴衆に好ましい印象を残したのが、柳家小太郎という前座である。この前座は「出」からして変わっていた。あたかも幼稚園児が遠足に連れていってもらうように、握りこぶしを振り回して大股で登場した。客席はそれだけで沸いた(漫才ブームの余熱がまだあった。客席は甘かった。思えば幸せな時代だった)。小太郎はポンポンとテンポ良く前座噺を演じると、またうれしそうに握りこぶしを振り回しながら下がっていった。落語自体も好感が持てたが、何より物怖じしない闊達さが、人気者小朝の露払いとして面白かった。

この元気のいい前座は、すぐに柳家小きんと改名し、二つ目に昇進する。そして四年後には四代目桂三木助を襲名し、真打になった。先輩の噺家を十数人飛び越した、小朝以来の抜擢人事だった。

 

 

四代目桂三木助は、三代目桂三木助の長男である。もっとも四代目は父のことをほとんど記憶していない。父、三代目桂三木助は昭和36年(1961)、四代目が四つのときに逝去している。四代目は成人し、立教大学に入り、五代目柳家小さんの門にも入る。

五代目柳家小さんは、先代三木助とは親友だった。たまたま二人が同じ小林姓であったことを奇貨として、先代三木助は晩年に恵まれた男の子に小さんと同じ盛夫という名をつけた。つまり、小林盛夫青年は、長じて亡父の親友で、同じ姓名をもつ落語界の第一人者に弟子入りしたのである。

三代目桂三木助は、「江戸前」「粋」「いなせ」という言葉を体現したような噺家だった。芸上の師匠筋の八代目桂文楽を上品な和菓子だとすれば、三木助は江戸前の寿司。粋が良くて、みずみずしくて、真っ直ぐである。特に「芝浜」という噺は、作家安藤鶴夫が絶賛したこともあって、昭和を代表する名品となっている。

三代目は湯島天神下の床屋姿見楼の子に生まれ、大正初期に六代目春風亭柳橋に入門したが、紆余曲折があり、大阪へ行ったり、廃業して踊りの師匠になったりしたこともあって、噺家として本格的に売れたのは昭和25年(1950)桂三木助を襲名してからである。この桂三木助はそれからわずか11年後、胃癌で世を去るまでに名人の称号を得、後世に名を遺したのである。戦後の落語復興期に一瞬光彩を放ち、たちまち消えていった、その潔さも三代目三木助の名を高めているかもしれない。

 

 

さて、桂三木助という名は、純然たる上方の名跡である。初代は上方落語の大立者二代目桂文枝の前々名である(立川三木助だったが)。二代目は二代目桂南光門で、上方人情噺の名手である。 湯島天神の床屋の子に生まれた江戸っ子が、なぜ三代目桂三木助を継ぐに至ったか。ここに一つの謎がある。表向きの話としては、三代目は東京で師匠の六代目柳橋と折り合いが悪く、大阪に下って二代目桂三木助の預かり弟子となり桂三木男を名乗った時期があった。これが縁で後に襲名したとされる。しかし、それはわずか一年のことに過ぎない。これしきの縁で上方落語の大きな名跡が簡単に移動できたのだろうか。

三代目三木助は、二代目の隠し子ではないか、これは三代目が在世中からささやかれた話である。三代目自身も「実は(湯島天神の床屋には)藁の上からの貰い子だった」と告白している。何より、写真を見れば一目瞭然だが、日本人には珍しいような高い鼻と、涼しげな目元が引き写しである。

では、仮に実の親子だったとして、湯島の床屋と上方の落語家にはどんなかかわりがあったのか。実は床屋のおかみさんの実弟は四代目春風亭柳枝という大看板だった。東西の違いはあるが、同じ寄席芸人のよしみで子供を妹夫婦に斡旋したことも考えられないではない。

 

 

二代目桂三木助は、有名な初代(通称)桂春団治の病没後、滅びへの坂を駆け下っていた感のある上方落語界にあって、最後の光明といっても良いような存在だった。現三代目桂米朝は「続上方落語ノート」(青蛙房)で、上方落語の故老、桂右之助が「名人芸と思うものを三つ上げて貰いたい」という問いに答えて、まず「桂三木助の『ざこ八』」を挙げたと記している。明治、大正の名人上手が居並ぶ中で、聞き巧者の同業者から筆頭に挙げられる実力をもっていたのである。

手元に二代目桂三木助のSPレコードから録った音が何本かある。SPのくぐもった音では細かな芸風はうかがうことが難しいが、落ち着いたしっとりした語り口で、じっくりと噺を聞かせてくれる人であることがわかる。今の噺家でいえば、ずばり、桂米朝だろうか。人情噺をはじめとする大ネタを自在に演じた実力の片鱗は感じ取れるのである。

この二代目桂三木助が昭和18年(1943)に没して、上方落語は五代目笑福亭松鶴や四代目桂米団治らの奮闘の甲斐なく、一時は全く消滅したような状態になった。

 

 

二代目三木助のもとに、のちの三代目三木助が居候していた一年間(大正15年)、二人は師弟とも朋輩ともつかぬ関係で、暢気な毎日を送ったようだ。しかし一方で、後年、三代目三木助を大成させたのはこのときの大阪修業が大きかったという世評がある。名人の名をほしいままにしていた盛時の二代目三木助の高座を舞台袖から見、日常をともにすることは、それだけで大きな収穫となったであろう。問わず語りの芸談もあったろう。さらに言うなら、当時、大阪には東京落語界でも屈指の実力をもった三代目三遊亭円馬が居を構えていた。円馬は当時、大阪で三木助と人気、実力を二分する存在だった。この円馬の教えを受けた噺家は数知れないが、三代目三木助も薫陶を受けた一人だった。

この大阪時代に、二代目と三木助と、のちの三代目の間に名跡を譲るという約束があったのかどうかはわからないが、二代目三木助の没後七年、三代目三木助は江戸の噺家として、東都に看板を上げた。そして、生粋の江戸落語の名手として一斉を風靡したのである。

つい最近になって、大阪の芸能史家の手で二代目三木助と三代目三木助が実の親子であったことが確認された。そうではないか、という憶測はあったが、確認されてみると、これはこれで驚きであった。話芸の力、噺家の遺伝子は江戸、上方の別を越えて伝えられたのである。

前述した通り、四代目三木助は、父三代目の芸風に触れていない。しかし、当代落語界の最高峰である柳家小さん門下として教えを受け、春風亭小朝に引き立てられる順風満帆の落語人生であるように思えた。二代目、三代目譲りの噺の遺伝子は、また違う形で受け継がれることと誰もが思った。

ことし正月の四代目桂三木助の死は、明治、大正、昭和前期に名人の名をほしいままにした上方落語の遺伝子と、戦後の東京落語界にひときわ鮮やかな光彩を放った江戸落語の遺伝子を、ともに過去の闇へと持ち去ったという意味でも痛ましいことだった。

 

 

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