くだるくだらない物語

 

第三回

空堀の円馬はん

あまり知られていないことだが、明治以降、東京在住で上方落語を演じたり、上方在住で江戸前の落語を演じたりする噺家が、ごく少数だが常に存在した。それぞれ個人的な事情があって、そのような境遇にいたのだが、彼らの生き方、そして微妙に変質していく話芸の変遷を追うことで、東西文化の差異と共通点が浮き彫りになってくる。今回から三回、こうした「噺のエトランジェ」たちの軌跡を追ってみたい。

大阪市の東部、上町台地から西へ「空堀通」という通りがある。昔の大阪城の城域の南端にあたる。どこにでもありそうな、庶民的な商店街だが、“昔から人々が住んできた街”に特有の、ある種の人間くささや、奥行きを感じる街である。

戦前この街には、東西屋(今のちんどん屋)や、興行師、寄席芸人などが多く住んでいた。近くの徳井町には「上町の師匠」と尊称された上方落語界の大立者、七代目桂文治も住んでいた。しかし、この街で「空堀の師匠」といえば、二代目三遊亭円馬のことだった。名前の通り、生粋の江戸の落語家。しかも、明治以降の東京落語界の最高峰、三遊亭円朝亡き後は「江戸落語の最後の光明」と称されたほどの名手だった。

二代目円馬は1854(安政元年)水戸藩士の子に生まれ、11歳で柳亭左龍の弟子となり落語の世界に入る。のちに三遊亭円朝の門人となった。扇子一本の素噺で早くから頭角をあらわし、一時は師匠名を継ぐとも期待された。しかし、当時円朝門には100人を超す門弟がいて、競争は激しく、三遊亭の宗家の名前円生の名をめぐる争いにやぶれ、一時は噺家の廃業も考えるに至った。明治24年(1891)、師匠三遊亭円朝の寄席からの引退を機に、円馬は大阪への移籍を思い立つ。何かと諍いの種があった東京を離れて、異郷で新規巻きなおしという気持ちもあったろう。

大阪の空堀に居を構えて、円馬は積極的に大阪の寄席に出演する。当時上方落語界もいくつかの派閥に分かれ、それぞれに興行師や寄席の席亭がついて、複雑な勢力図を描いていた。この混沌の中から吉本興業が台頭するのだが、ビッグネームの円馬は、あちこちの流派から誘いを受け、陣営を幾度かかわっている。こうした人いきれが嫌さに上方に移ったのに、また同様の騒ぎに巻き込まれたのだ。心中複雑なものがあったろうが、今度はあくまで外様である。比較的気楽に事の成り行きを見守ることができたのではないか。

二代目円馬は、実弟の橘ノ円(まどか)が組んだ「円頂派」という一座で東京の高座に上がったことがある。しかし、それ以外は後半生をほとんど大阪で過ごした。この間に東京の寄席の世界は大きく変貌する。円朝の引退、本格派といわれた名人上手の引退、死亡、そして三遊亭円遊を頭とする珍芸四天王と呼ばれる刹那的な芸が歓迎される中で、江戸時代から続く本格的な江戸前の落語は、東京でもあまり聞けなくなった。

古格を守り、昔ながらの江戸落語を演じつづける円馬は、晩年には東西を通じても稀有の存在になった。「本当の江戸前の落語を聞きたければ大阪へ行け」そんな声も聞かれた。おそらくは円馬の芸風は上方で受け入れられたかは疑わしいが、のちには円馬を熱烈に愛する上方の通人もついた。「空堀の円馬はん」は、大阪人の誇りになったのだ。彼が「船行き」という出囃子をアレンジした「円馬囃子」は、今も米朝独演会などで聞くことができる。

大正7年(1918)円馬は65歳で没する。大阪に骨を埋めた。墓は大阪市天王寺区の寿法寺にある。

 

 

明治中期、大阪に笑福亭都木松という天才的な少年落語家がいた、12歳で当時「女将軍」といわれた人気絶頂の音曲師立花家橘之助(美空ひばりを想像してほしい)の引き立てを受けて東京へ上った。

日露戦争に従軍したり、地方巡業などで東京を離れることもあったが、明治末期には若手落語家のナンバーワンの位置を得た。当時の芸名は朝寝坊むらく。むらくの破天荒なところは、江戸落語で抜群の腕前を示しながら、上方落語を上方弁で演じて、これも超一流であったことだ。こんな噺家は古今に例がない。しかも苦みばしった良い男。まさに日の出の勢いだったが、生来の鼻柱が強いことが災いし、師匠の橘之助や周囲とトラブルを起こし、名前を返上。本名からとった橋本川柳という名で地方巡業の後に大阪に落ち着いた。

大阪でも人気は上々。爆笑王桂春団治や桂三木助と並ぶ看板を得た。周囲の進めもあり、また二代目の推薦もあって大正7年(1918)三代目三遊亭円馬を襲名した。

大阪でも三代目円馬は、主に江戸落語を演じた。しかし、その登場人物に上方の人間が出るときは正確な上方弁でしゃべらせた。これは簡単そうに見えてほとんど不可能な芸当である。この師匠を慕って、多くの若手噺家が稽古に訪れた。八代目桂文楽、三代目三遊亭金馬、六代目三遊亭円生、つまりは戦後の東京落語黄金期を担った噺家の多くは、大阪在住の四代目円馬の薫陶を受けたのだ。前にも述べたが、桂文楽が「なめろと言われりゃ、あたしゃ師匠のげろでもなめたでしょう」と言ったという話は、名人文楽の円馬への傾倒を生々しいまでに語っている。また吉井勇や正岡容などの文人はそのまっすぐで純粋な人柄を深く愛した。

この三代目三遊亭円馬も終生大阪の地を離れなかった。終戦間近の昭和20年1月、三代目円馬は没した。

三代目三遊亭円馬の最期を看取ったのは弟子の小円馬である。

もとは東京の噺家の家に生まれたが、父が大阪に移ったため大阪で二代目三遊亭円馬の門に入った。師匠の没後は三代目円馬門に。男前で、若旦那然とした風貌が受けて、一時期はアイドル的な人気を博す。背広で舞台に立つなど、奇抜な演出もしたが、噺の修行もまじめに続けていた。

師匠であり、父代わりの三代目円馬の死とともに後ろ盾を失った小円馬は、仲介者もあって昭和22年(1947)、東京落語界に復帰。四代目三遊亭円馬を襲名した。円馬という東京落語の大看板の名跡は、実に56年ぶりに東京に里帰りしたのだ。

戦後の落語ブームの中で、四代目円馬は、多くの門弟を育て、落語芸術協会の柱石の一人として重きを成す。野太い声とおおらかな口調は、上方の大旦那を思い起こさせたが、落語は完全な東京落語だった。

四代目三遊亭円馬は、昭和59年(1984)八十六歳で世を去る。戦後の上方落語は、戦前からの師匠があたかもバトンタッチをするように松鶴、米朝らに噺を伝え、次々と世を去ってしまった。戦前の上方落語の全盛期を知る噺家は、上方には皆無に等しい中で、三遊亭円馬は、上方落語華やかかりし頃を、芸人として肌で知っている稀有の存在だった。「上方落語の真髄を知ろうと思えば、東京へ行け」とでも言うべきか。

惜しむらくは、四代目円馬の聞き書きがまとまった形では残っていないことである。不思議な縁で東西を行き来した三遊亭円馬の名跡は、四代目円馬の筆頭弟子小円馬の没後、まだ空席である。

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