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未来を嘱望されていた桂米丸が東京へ移った背景には東京の落語界の事情があった。大正6年8月、東京では興行資本によって給与制で噺家を管理しようという東京寄席演芸株式会社が設立された。これに反発する四代目春風亭柳枝、五代目柳亭左楽らは「睦会(むつみかい)」という一派を立てて対抗した。危機感を抱いた東京寄席演芸側は出演者の補強のために上方の若手、橘家円歌(のちの橘ノ円都)、桂米丸らを東京に招いた。当初の契約は1ヶ月だったが、米丸は円蔵の身内となってその後も東京にとどまった。そして大阪での揉めごとがあった翌大正7年、米丸は初代(実は二代目)桂小文治を襲名して東京でも真打となる。名実ともに東京の噺家になったのだ。(以下、小文治と呼ぶ)
小文治が東京へ定住することになったのは、東京で熱狂的に受け入れられたからである。「正蔵一代」によると、小文治は上京当初、両国に荷をほどいた。当時、両国の若旦那たちは桂右女助(のちの四代目古今亭今輔)という噺家を贔屓にしていたが右女助はおかみさんを捨てて芳町の芸者のところに入り浸ってしまった。「そんな薄情な奴は贔屓にしねえ!」と憤った若旦那連中は、「それじゃあ、町内に新しくやってきた小文治を贔屓にしよう、あいつは上方ものだが、若くて綺麗だ」と新参者の小文治を引き立てた。これが契機となってちょっとした小文治フィーバーが起きたようなのだ。
一方で、小文治が上方に見切りをつけた背景には、急成長した彼に対する楽屋内の軋轢もあったようだ。それに、上方落語界全体の退潮も見逃せない。明治末期から上方落語界は諸派が分立する戦国時代となった。その中でじわじわと実力を蓄えてきたのが吉本興行である。芸人たちは小派閥に分かれて小競り合いを繰り返した挙句、疲弊して興行資本に次々と吸収されていった。上方落語界は、いまだ桂春団治が太陽のように輝いてはいたが、すでに山際には闇が迫っていた。その山陰では噺家たちが暗闘を繰り返していた。小文治はこんな状況に嫌気がさした、という一面があったように思われる。
しかし、移籍した東京落語界でも事情は同じだった。興行資本と噺家は対立し、噺家同士も派閥抗争を続けていた。しかし、この「コップの中の嵐」の渦中で、小文治は意外な政治力を発揮する。まず、所属した東京寄席演芸からライバルの睦会に移籍、ここで八代目桂文楽、三代目春風亭柳好、春風亭小柳枝(のちの六代目春風亭柳橋)とならぶ「睦の四天王」と呼ばれる若手スターとなる。昭和に入ると日本演芸協会を設立し、昭和8年には日本芸術協会(のち落語芸術協会)に合流。六代目春風亭柳橋会長を補佐する副会長となる。純然たる上方落語でありながら、東京落語界の幹部となったのだ。
 関東大震災から戦中戦後の多難な時期を小文治は仲間と手を携えて乗り切っていく。容貌は細面で、とても人を引っ張っていくように見えなかったが、小文治は人情家で親分肌、これを慕って多くの芸人が門下にはせ参じた。新作派の五代目古今亭今輔、インテリの二代目桂枝太郎、飄々とした味の四代目三遊亭円遊、これらの門弟はいずれも小文治とは数歳しか違わない、しかも純然たる東京落語だった。また、ワイドショーの司会で一斉を風靡した桂小金治や現落語芸術協会会長の十代目桂文治もその門下、前会長の桂米丸は、古今亭今輔の弟子、つまり孫弟子であり、小文治の前名をもらっている。実質的に、現在、落語協会と並ぶ東京落語の二大組織である落語芸術協会は、その主要部分を小文治の門流が占めているのだ。しかし、小文治は落語芸術協会の会長にはならなかった。上方落語家が東京落語のトップとなることで起きる軋轢を避けたのだろう。芸人同士の葛藤をいやというほど経験してきた苦労人ならではの賢明さである。
数多くの門弟を擁し、大師匠と称えられて桂小文治は幸福な晩年を送った。昭和42年、逝去。享年74歳。(現桂文治の門人、つまり小文治の孫弟子に当たる桂亭治が二代目桂小文治を襲名している。上方落語とのかかわりはない)
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