第四回

東京で開いた上方の花

一 ある事件

七代目桂文治という名前はこの欄に、これまで何度か登場している。戦前の上方落語界最大の大物であり、「上町の師匠」と尊称されていた七代目桂文治は、大正6年後半(と推測される)引退興行を行い、一線を退いた。この引退興行の場でちょっとした悶着があった。

南地紅梅亭(これも推測)で昼夜行われた引退興行には、文冶一門のそうそうたる顔ぶれが集まった。人気絶頂の初代春団治の姿もある。東京からはこれまた人気者で、芥川竜之介をして「全身が舌だ」と言わしめた「品川の円蔵」こと四代目橘家円蔵がかけつけた。口上の席にはまず、文治を囲んで上方落語の大所、人気者、実力者が居並んだ。まさに上方落語最後の光明というべき偉観である。当の文治は「私なきあとはここにいる子や孫たちをよろしく頼む」と、いかにも長者らしい口上で締めくくった。門弟はじめ上方の芸人たちも、飄逸な中にも不世出の大物噺家の引退を愛惜する気持ちのこもった口上で、客席も楽屋もしんみりとさせた。

このあとに登場したのが品川の円蔵である。彼は東京から桂米丸という若手を連れてきていた。米丸はついこの間まで大阪にいて、引退する文治の秘蔵っ子として将来を嘱望されていたが、この年の9月に東京の落語界に移籍していた。東京では円蔵の身内の扱いで引き立てを受け、人気が高まっていた。ここで円蔵は東京からの来演の挨拶もそこそこに(楽屋に控えていた)米丸の売込みをはじめたのである。「え-、ご当地出身の桂米丸は文冶師匠の愛弟子でありますが(中略)文治師匠ご引退といえども文冶師匠同様に米丸をよろしくお願い申し上げます」

この口上に怒ったのが桂春団治である。「後家殺し」「やたけた」とよばれた春団治は、向こう気の強さでも知られていた。春団治は文治門といっても直系ではなく、後から一門に入って、散々苦渋をなめて這い上がってきた。一方の米丸は春団治より15歳も若いが、直系のエリートとして順調に出世し、前年には上方で真打に昇進していた。それが東京の誘いに乗って大阪を捨てた。師匠が引退するからといってどの面を下げてのこのこやってくるのか。ましてやその席で宣伝してもらうとは何事や!

たちまち高座に飛び上がる春団治。後ろから抱きとめる米丸「兄さん、待っとくれやす!」春団治は振り向きざま「この恩知らず、おまえはいつ円蔵の弟子になった。今ごろ何しに帰って来さらした。この罰あたりめ!」とののしり、米丸を蹴り上げて高座に上がり「橘家、あんた、誰の口上に来たのや、米丸の口上ならやめてくれ!」

人格者の橘家円蔵はこの高座を何とかまとめたが、楽屋では米丸が声をあげて泣いている。春団治のまわりには「よくぞいうてくれた!」と仲間が集まってくる。席主は「えらい事をしくれた」と頭を抱える。まさに喜怒哀楽が渦巻く仕儀となった。

このエピソードは富士正治の名著「桂春団治」に出ている。この一件をきっかけに、春団治は席主たちと折り合いが悪しくなり、独自の一座を組むようになる。そして、24歳の桂米丸は、上方に帰りづらくなり、東京に骨を埋めることとなる。

 

 

二東京落語に君臨する

未来を嘱望されていた桂米丸が東京へ移った背景には東京の落語界の事情があった。大正6年8月、東京では興行資本によって給与制で噺家を管理しようという東京寄席演芸株式会社が設立された。これに反発する四代目春風亭柳枝、五代目柳亭左楽らは「睦会(むつみかい)」という一派を立てて対抗した。危機感を抱いた東京寄席演芸側は出演者の補強のために上方の若手、橘家円歌(のちの橘ノ円都)、桂米丸らを東京に招いた。当初の契約は1ヶ月だったが、米丸は円蔵の身内となってその後も東京にとどまった。そして大阪での揉めごとがあった翌大正7年、米丸は初代(実は二代目)桂小文治を襲名して東京でも真打となる。名実ともに東京の噺家になったのだ。(以下、小文治と呼ぶ)

小文治が東京へ定住することになったのは、東京で熱狂的に受け入れられたからである。「正蔵一代」によると、小文治は上京当初、両国に荷をほどいた。当時、両国の若旦那たちは桂右女助(のちの四代目古今亭今輔)という噺家を贔屓にしていたが右女助はおかみさんを捨てて芳町の芸者のところに入り浸ってしまった。「そんな薄情な奴は贔屓にしねえ!」と憤った若旦那連中は、「それじゃあ、町内に新しくやってきた小文治を贔屓にしよう、あいつは上方ものだが、若くて綺麗だ」と新参者の小文治を引き立てた。これが契機となってちょっとした小文治フィーバーが起きたようなのだ。

一方で、小文治が上方に見切りをつけた背景には、急成長した彼に対する楽屋内の軋轢もあったようだ。それに、上方落語界全体の退潮も見逃せない。明治末期から上方落語界は諸派が分立する戦国時代となった。その中でじわじわと実力を蓄えてきたのが吉本興行である。芸人たちは小派閥に分かれて小競り合いを繰り返した挙句、疲弊して興行資本に次々と吸収されていった。上方落語界は、いまだ桂春団治が太陽のように輝いてはいたが、すでに山際には闇が迫っていた。その山陰では噺家たちが暗闘を繰り返していた。小文治はこんな状況に嫌気がさした、という一面があったように思われる。

しかし、移籍した東京落語界でも事情は同じだった。興行資本と噺家は対立し、噺家同士も派閥抗争を続けていた。しかし、この「コップの中の嵐」の渦中で、小文治は意外な政治力を発揮する。まず、所属した東京寄席演芸からライバルの睦会に移籍、ここで八代目桂文楽、三代目春風亭柳好、春風亭小柳枝(のちの六代目春風亭柳橋)とならぶ「睦の四天王」と呼ばれる若手スターとなる。昭和に入ると日本演芸協会を設立し、昭和8年には日本芸術協会(のち落語芸術協会)に合流。六代目春風亭柳橋会長を補佐する副会長となる。純然たる上方落語でありながら、東京落語界の幹部となったのだ。

関東大震災から戦中戦後の多難な時期を小文治は仲間と手を携えて乗り切っていく。容貌は細面で、とても人を引っ張っていくように見えなかったが、小文治は人情家で親分肌、これを慕って多くの芸人が門下にはせ参じた。新作派の五代目古今亭今輔、インテリの二代目桂枝太郎、飄々とした味の四代目三遊亭円遊、これらの門弟はいずれも小文治とは数歳しか違わない、しかも純然たる東京落語だった。また、ワイドショーの司会で一斉を風靡した桂小金治や現落語芸術協会会長の十代目桂文治もその門下、前会長の桂米丸は、古今亭今輔の弟子、つまり孫弟子であり、小文治の前名をもらっている。実質的に、現在、落語協会と並ぶ東京落語の二大組織である落語芸術協会は、その主要部分を小文治の門流が占めているのだ。しかし、小文治は落語芸術協会の会長にはならなかった。上方落語家が東京落語のトップとなることで起きる軋轢を避けたのだろう。芸人同士の葛藤をいやというほど経験してきた苦労人ならではの賢明さである。

数多くの門弟を擁し、大師匠と称えられて桂小文治は幸福な晩年を送った。昭和42年、逝去。享年74歳。(現桂文治の門人、つまり小文治の孫弟子に当たる桂亭治が二代目桂小文治を襲名している。上方落語とのかかわりはない)

 

三「東京の上方落語」

さて、桂小文治の功績は、組織としての落語芸術協会を支えたことだけではない。これまで、単なる色変わり、客演でしかなかった上方落語を東京落語の一つのメニューとして定着させた功績は大きい。

小文治は、東京へ来た当初は上方弁を基本にしつつも、東京の聴衆に理解してもらうために、できるだけ東京弁、標準語に近い言葉で落語をやろうと努めていたようだ。戦後になって上方弁が東京でも急速に通じるようになって、上方弁に戻したようである。しかし、その上方弁は大正時代のものであり、しかも一部に標準語的な言葉が残っていた。今、テープで彼の落語を聞くと、ところどころに言語としては標準語だがイントネーションは上方(つまり東京に出た関西人がついつい話してしまうあの言葉遣いである)の言葉が混じっていて少々気持ちが悪い。また上方弁もどこか今の言葉とは違っている。そのことが、東京人が聞いても、大阪人が聞いてもどこか不自然な印象をもたせるようになったようだ。(一時期、小文治は現代を舞台にした新作落語にこった時期があったが、中途半端な現代語を多用した落語を演じたことが、彼の高座に影響を与えたかもしれない。)晩年の小文治が噺はそこそこに、小粋な寄席の踊りを売り物にしていたのには、こうした背景があったのかもしれない。

しかし、小文治はそれだけの噺家ではなかった。しかるべき「場」を与えられれば、「上町の大師匠」桂文治一門で薫陶を受けた本物の芸を見せつけた。川戸貞吉氏は「現代落語家論」の中で、小文治の芸が嫌いで避けていたが、あるとき「しじみ屋」を聞いて、その人間描写の巧みさに感嘆したと書いている。昭和30年代、戦前からの上方落語家は、すでに関西には橘ノ円都、桂文団治くらいしかいず、それも半ば引退状態だったが、小文治は東京で上方落語全盛期に身に付けた一級の噺を折に触れて披露していたのだ。昭和36年、小文治は「紙屑屋」で芸術祭奨励賞を受賞している。

桂小文治に続く形で、初代春団治の弟弟子だった桂梅団治が六代目三遊亭円生門をたたき、三遊亭百生と名乗って東京落語会で活躍した。

そして、昭和26年、京都出身で三代目三遊亭金馬門にいた山遊亭金太郎が小文治の門を叩いた。純然たる上方落語を志しつつも東京の小文治を選んだ金太郎に、小文治はもてる芸を伝えた。すでに30歳を超えていた金太郎は師匠の教えを受けるほか、桂米朝ら上方落語家との親交を通じて独自の上方落語を築いていった。昭和33年、金太郎は上方落語の大名跡二代目桂小南を襲名した。二代目桂小南は、確かに上方弁で落語をしていたし、演目も多くは上方落語だった。しかし、どこにも上方臭がしない、不思議な存在だった。桂小文治の落語では違和感があった上方訛りの標準語も、小南の場合、それほど耳障りではなかった。むしろ、小南の落語では、泥臭い上方弁よりもその言葉のほうが相応しいようにさえ思えた。桂小文治が拓いた「東京の上方落語」は、桂小南によって完成されたといっても良いかもしれない。小南は集団指導体制をとる落語芸術協会の幹部として、副会長もつとめた。また桂文朝はじめ多くの噺家(すべて東京落語)を育てた。

平成8年、桂小南が世を去ってから、「東京の上方落語」を継承する噺家はいない。しかし、落語芸術協会には今、人気者の笑福亭鶴光が客分真打としてわらじを脱いでいる。また、上方落語協会会長の露乃五郎もしばしば客演する。他の上方落語家たちもごく普通に東京の高座に出ている。もはや彼らに東京の聴衆に臆するところは見られない。彼ら上方落語家の前に、桂小文治をはじめとする東京で地ならしをした先人たちが居たことを記憶しておくべきだろう。

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