第五回

そして、さまざまな花が開く

一.市民権を得た関西弁

近年の「関西弁」の東京進出には目を見張るものがある。それはほとんど「吉本興業」という一企業によってなされたといっても過言ではないのだが、上方落語もその恩恵に浴した部分があって、今では関西で演じるのとほとんど変わらないコンディションで東京公演ができるようになった。(もちろん、前回まで紹介したように上方落語を東京に根付かせようと奮闘した先人の功績は大である。それを踏まえてのことではあるが)

前回も述べたように東京に拠点を移した笑福亭鶴光、片足を置いた状態の露の五郎。さらには桂米朝、桂文枝、故桂枝雀などの実力者もしばしば独演会を開いている。落語という芸能のステータスは漫才が主流の関西よりも東京のほうが高い。「大阪よりも東京のほうがやりやすい」という声も聞こえるようになった。すぐに笑いを求める上方の客とは異なり、「聞いてやろう」と鷹揚に構える聴衆の懐の深さは、やはり東京ならではというべきであろう。

こうした社会の変化を背景に、現在ではさまざまな形で東西の落語家が行き交っている。そのうちの幾人かを紹介しよう。

二.春雨、猿笑、ブラック、小田原丈

東京に生まれながら、上方落語を演りたくて三代目桂春団治に入門した桂春雨という噺家がいる。この人は高校時代に“三代目(現春団治の尊称)”の高座に接し、惚れ込んで門を叩いた。すでに三代目門には、四代目桂福団治という地方出身の先輩がいた。四日市市出身の福団治の言葉を、三代目は徹底的に鍛えなおし、上方ネイティブに近い域にまで育て上げた(ちなみに「福団治」という芸名は、現三代目春団治も、実父の二代目春団治も名乗ったことがある大きな名である)。春雨は理想的な師匠についたといって良いだろう。日常会話の言葉のニュアンス、細かなイントネーション、春雨は毎日二十四時間が勉強という月日を過ごした。入門以来18年、今では上方落語界の中堅として活躍している。

一方で、東京で料理人として身を立てていながら30代半ばで一大決心をして大阪に来、故六代目笑福亭松鶴に入門した笑福亭猿笑という噺家がいる。松鶴最晩年の内弟子のひとりとして、料理の腕を振るって師匠を喜ばせた。もともとが故六代目三遊亭円生に入門したかったのを家族の反対で断念した、という経緯にちなんで松鶴は「猿笑」という芸名をつけた。それだけに、この人は上方に移っても東京弁で通し、東京落語を演じている。苦労人だけに人の心をつかむのがうまい猿笑は、上方の水がよく馴染み、多くの熱烈なファンを獲得している。この人は、東京ではプロの噺家だったわけでなく、上方へ移ってから東京落語をはじめたという点でも稀有の存在である。

さらに、アメリカ系ハーフとして生まれ、五代目立川談志に入門し、上方の桂三枝に預けられ、再び東京へ移った噺家、二代目快楽亭ブラックがいる。この人は名人、五代目古今亭志ん生が持っていた改名回数の記録を更新することに情熱を傾けてきた。

五代目古今亭志ん生 改名記録(一部異説もあるが信頼のおける記録を載せておく)@三遊亭盛朝(三遊亭円盛門)→A三遊亭朝太(二代目三遊亭小円朝門)→B三遊亭円菊(同 二つ目昇進)→C金原亭馬太郎(四代目古今亭志ん生門)→D金原亭武生(同)→E金原亭馬きん(同 真打昇進)→F古今亭志ん馬(同)→G小金井芦風(講釈三代目小金井芦州門)→H古今亭志ん馬(四代目古今亭志ん生門)→I古今亭馬きん(同)→J古今亭馬生(同)→K柳家東三楼(柳家三語楼門)→L柳家ぎん馬(同)→M柳家甚語楼(同)→N古今亭志ん馬→O七代目金原亭馬生→P五代目古今亭志ん生   17回

二代目快楽亭ブラック 改名記録 @立川ワシントン(五代目立川談志門)→Aジョニー三ノ助(桂三枝門)→B桂三ノ助(同)→C桂サンQ(同)→D立川談トン(五代目立川談志門 二つ目昇進)→E立川カメレオン(同)→F立川レーガン(同)→G立川丹波守(同)→H英国屋志笑(同)→I立川レフチェンコ(同)→J立川世之介(同)→K立川小錦(同)→L快楽亭セックス(同)⇔M立川マーガレット(同 快楽亭セックスが使えないときのみ)→N立川平成(同)→O二代目快楽亭ブラック(同 真打昇進) 16回

あと一回で並ぶのだが、真打となって落ちついている。本来、大切にすべき芸名を目まぐるしく変えるのは一見不謹慎なようだが、こうした生き方の中から「人生を洒落のめして生きよう」という芸人魂が見える。上方でも桂歌之助しか演じない小道具の入る「善光寺骨寄せ」を演じたり、AVの評論をやったり、さらには歌舞伎の通人であったり、この人の目には上方文化、江戸文化という違いを超えた、さらには落語や古典芸能の枠をも超越した不思議な世界が見えているのかもしれない。

変わった例としては、上方へ「落語留学」した東京の噺家がいる。三遊亭小田原丈。新作派の三遊亭円丈(この人は名古屋の出身)門の二つ目だが、彼は一昨年、上方へ「落語短期留学」をした。大阪市内に一人住まいをする傍ら、上方の噺家と交流してネタを増やし、落語会に出た。また裏千家の茶道も習得した。この経験をどう生かすかはこれからの話だが、こんな交流もこれから活発になるのかもしれない。

※読者の方から以下のようなご指摘がありました。

「 中略)英国屋志笑→立川レフチェンコ→立川志笑→立川レフチェンコ→立川世之介(後略)のはずです。出来れば訂正をお願いします。

上記の文章は同じ名前の改名を一つにまとめた解釈の本を引用したものです。文章としてはこのままにさせていただきますが、ご指摘を心より感謝いたします。
和の学校編集部  2005.6.2


三.どうなっていくのか

数は少ないが、いつの時代も、東西を渡り歩く噺家は存在した。彼らは東西の噺家たちに刺激を与える活性剤の役割を果たしてきた。これまでは、の話である。

テレビの強大な影響の下、現在の日本は、かつてないほど「標準化」が進んでいる。全国どこの家庭でも同じ番組を見、同じ話題を話している。特に若い世代は、ファッションも、遊びも、こまかな習俗も、ほとんど同じ。地方色はまるでサンドペーパーで削り取られたように無くなりつつある。暗澹とした思いにとらわれるのは、大阪の下町の小学校で国語の教科書を音読するとき、大部分の子供が標準語で読んでいることである。親や教師もそれをなんとも思っていない。日常会話の中にも標準語、否、テレビ語はずんずんと入り込んでいる。この時代に、東西の落語家の交流の話など、ほとんど無意味ではないか、そんな気さえしてくる。国際化、ボーダレス化が進む現代社会では、そんなチンケな話はもはや暇つぶしにしかならないように思えてくる。

しかし、こんな時代だからこそ、噺家たちには東京に、上方にこだわってほしい。その違いを云々してほしい。そのこだわりが、上質な、きめの細かい話芸の伝承につながると思うのである。

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