第六回(緊急版)

故古今亭志ん朝と上方

このコラムの第5回をアップロードする直前に二代目古今亭志ん朝が63歳で死去した。人気、実力ともに東京落語の第一人者であり、その喪失感は計り知れない。志ん朝によって落語の魅力に目覚めた人はいったいどのくらいいるだろう、と考えると大げさでなく「落日」の思いがする。また、志ん朝は上方落語家と最も多く共演した東京の落語家であり、上方の聴衆に深く愛されていた。この稿のテーマである「落語を通した東西文化」という観点から、志ん朝について記しておきたい。

関西の聴衆は今でも東京落語に冷淡である。小さな声で、芸を出し惜しみする様にぼそぼそと話す芸は聞き取りにくくて、取り澄ました様で、不親切で。サービス精神が横溢した関西の芸能に比べればけち臭い。東京の落語家の多くが関西を「鬼門」とするのもうなずける。ある年配の芸能愛好家が真顔で「私は柳家小さんのどこがおもしろいのか、わかりまへん」といっているのをきいたこともある。当代落語界の最高峰も、関西人にかかっては形無しなのである。

そんな中で、古今亭志ん朝だけは、唯一といって良い例外だった。登場しただけでぱっと会場が明るくなるような「華」、気持ちのいい通る声、派手なアクション。それでいて江戸前の「粋」の輪郭はくっきりと印象付ける。志ん朝の芸には関西の聴衆も引きつけられた。出囃子「老松」が鳴ると、ひときわ大きな拍手が鳴ったりしたものだ。志ん朝がいなければ、関西のファンは「東京落語なんて、えらそうにしてるだけでおもしろないもんや」と吐き棄ててしまったかもしれない。志ん朝は上方の人気者と並んでも見劣りしない華やかさをふりまきつつ、東京落語の魅力も十二分に堪能させた稀有の存在だった。

志ん朝に魅了されたのは、関西の聴衆だけではない。舞台袖で聞き入っている若手たちも「落語ってこんなに凄いもんやったんや」と目を輝かした。あの人の芸境に及びもしないが、自分もあんな風に気持ち良く落語をやってみたいものだ、とみんなが思った。百万語の小言にも勝る教育効果を与えたのだ。

毎年夏、神戸で開かれる「東西落語特選」は、東西の大師匠が顔を合わせる顔見世のような会。名プロデューサー故楠本喬章氏の尽力によって実現した屈指の落語会だった。この会の常連だった志ん朝は毎回、その魅力を存分に発揮した。それだけでなく、志ん朝の高座は、共演する人々をも巻き込んだ。ある年、志ん朝は「井戸の茶碗」という人情噺を熱演した。「じわ」という言葉がある。聴衆が感動のあまりもらすため息が集まって会場に「じわっ」という音が響くさまなのだが、まさにこのときの志ん朝の高座は「じわ」が来ていた。その後に上がった桂春団治、その夜は目の輝きが違っていた。ふだんならさらっと演じるであろう「皿屋敷」を、じっくりと、そして情熱を込めてたっぷりと演じた。また「じわ」がきた。聴衆は自分たちが発した熱気に当てられたかのように、しばらく席を立てなかった。会がはねて、私はいつも真っ直ぐ帰る気にはとてもなれなかった。その余韻にひたりたくて、三ノ宮あたりまで歩いたものだ。幸せなひとときだった。

優れた話芸は東西の違いを超えて人々を深く魅了する。志ん朝はまさにそれを証明して見せた。しかし、その芸は東西落語から遊離していたわけではない。大きな目で見るなら、志ん朝の至芸は何世紀にもわたる東西の落語家たちの営為の上に咲いた花だったのだ。

面白い噺家、人気者はこれからも出るだろう。しかし志ん朝のような「華」「きらめき」をもった存在はもう出てこないかもしれない。そんな痛みを感じるこの秋である。

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