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今では、出囃子といえば落語には不可欠の演出。あの三味線の音が無ければ噺家は高座に上がれないように思うが、東京落語に限れば、出囃子は上方から移されてたかだか八十五年ほどの歴史しかない。それまでは、「片しゃぎり」という太鼓で静々と高座にあがっていた。今の講談と同じである。東京の寄席にお囃子がいなかったわけではない。曲芸などの色物(落語以外の演目)や、芝居噺には賑やかな三味線や鳴り物が入った。しかし、噺一本で聴衆を堪能させる「素噺(すばなし)」は、無骨な太鼓の音で地味に上がるのが粋とされていたのだ。
この昔かたぎの東京落語に上方の出囃子が入り込んだのは、すでに桂小文治の項で述べた東京落語界の分裂騒ぎがきっかけである。大正6年(1917)8月、給料制の東京寄席演芸会社の設立に反発した五代目柳亭左楽を中心とするグループが、落語睦会を結成した。若手の人気者を数多く擁する睦会は寄席の充実のために次々と新機軸を打ち出したが、その一環として出囃子を導入したのだ。一説によれば落語界が生んだ最大の“政治家”といわれた五代目柳亭左楽が、「これからの寄席にはこうした賑やかな演出が不可欠だ」と断じて周囲を説得したといわれる。まさに英断だった。
出囃子なかりせば、戦後の落語全盛期の賑わいはずいぶんと違ったものになっていただろう。ラジオやテレビで落語を楽しむスタイルがここまで定着しただろうか、とさえ思う。出囃子は上方から東京への上方からの最大の贈り物だったし、柳亭左楽は出囃子を取り入れたという一点でも落語の歴史に名をとどめる価値がある。
二.出囃子が噺家のテーマソングになるまで
導入された当初、出囃子には確たるルールがあったわけではない。噺家が思い思いの曲を使っていたし、気分によって、演目によって曲目を変える演者も多かった。実は上方でも特定の出囃子を自分の曲として使う噺家はそれほど多くはなかった。初代桂春団治は膨大な種類のSPレコードを残しているが、その出囃子には「鞨鼓」あり「野崎」あり、まちまちである。
こうした傾向が変化しだしたのは戦後数年が経ってからである。終戦直後の混乱がようやく落ち着き始め、人々が娯楽へと戻ってきた。大陸から引き揚げてきた五代目古今亭志ん生、六代目三遊亭円生らも寄席に復帰し、顔ぶれが揃いはじめた。折りしも民間放送がはじまり、コンテンツ不足の草創期の放送局は、落語に飛びついた。毎日のように落語が電波に乗る。寄席に行けない地方の聴衆も落語の魅力にとりつかれるようになった。この全盛期へと向かう上り坂の時期に出囃子は「噺家のテーマソング」へと変わったのである。それまで、三代目三遊亭金馬と同じ「二上がり鞨鼓」を使うことが多かった五代目古今亭志ん生は「一丁入り」に変えた。八代目桂文楽は「野崎」、六代目三遊亭円生は「正札付」。それぞれの噺家が意識して出囃子を使い始めたのである。
一方、上方落語は戦後、数名の古老と数名の入門者がいるばかりの壊滅状態からスタートしたが、昭和30年代後半になってようやく陣容が整いはじめた。六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春団治、三代目桂小文枝(のち五代目桂文枝)のいわゆる「上方四天王」が実力をつけ、弟子も集まり始めた。松鶴は「舟行き」米朝は「鞨鼓」春団治は「野崎」小文枝は「のきすだれ」、出囃子もそれぞれの個性を反映した趣き深いものだった。戦前の上方落語の全盛期を知る寄席囃子の第一人者、林家とみが昭和40年代まで健在だったことも貴重だ。林家とみのおかげで、出囃子には、今では原典さえわからない邦楽の化石のような曲が、いくつも残されている。
寄席の高座でめくり(出演者の名前を書いた紙)が変わり、出囃子が鳴ると贔屓の客の胸はそぞろ高まる。これは味気ない言い方をすれば条件反射の一種なのだろうが、こうした期待感の盛り上げ方が落語の魅力をさらに磨き立てた。戦後はじまった「ホール落語」も出囃子の役割を高めるはたらきをした。ホールから高座までの距離は長い。自然、ホール落語では噺家の「出」の時間が長くなり、寄席では「一杯」ですむ出囃子が「二杯」「三杯」とリフレインすることになる。聴衆は出囃子をじっくりと聞く楽しみを覚えるようになったのだ。
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