第八回

「桂文我出席控」の東西

一.明治大正の寄席芸界の大きな遺産

 

故桂枝雀門の四代目桂文我が「復活・珍品上方落語選集」(燃焼社)という本を出した。現在は滅多に演じられることのない上方落語の古い演目、珍品を丹念に復刻した記録である。三代目桂米朝の落語研究家としての血脈は孫弟子の文我に受け継がれたという感がある。

今年(2001年)は、もう一つ「桂文我」という芸人にかかわる本が出版された。初代(実際は二代目らしい)桂文我の遺した「桂文我出席控」(全6冊のうち4冊)の翻刻の完了である。

この「桂文我出席控」は、噺家や愛好家の間では「幻の史料」として以前からよく知られていた。記録魔として名高い桂文我が、明治12年(1879)から大正元年(1912)の長きに渡って自身が出席した寄席や巡業の記録を克明に記録したものである。当時の噺家、芸人の力関係や寄席の興行形態などがわかる殆ど唯一の史料。それだけでなく、芸人文我の目を通して落語家同士の葛藤や、席亭(寄席オーナー)とのもめごと、当時の事件などが生き生きと描かれている。当時の世相、風俗を知る上でも格好の資料なのである。
読んでいるとなかなかやめられない。

明治18年(1885)9月席西京極通蛸薬師幾代席、桂文林の名前の横には小さい字で「二十二日よりダッそする」文林という噺家が、金品を持って逃走したのである。

明治27年(1894)2月19日岐阜笹土居戎座、トリの曾呂利新左衛門の横に「若六と申宿の下女おしづ 曾呂利さまがつまむおきぬ新右がつまむよばいのはじまり」師匠の曾呂利新左衛門が宿の下女に夜這いをかけ、ちょっと「つまんだ」のを皮切りに弟子の新右ら芸人が夜這いを始めたというのである。その1ヶ月後の四日市喜楽座では「宿の下女おはる新右がスル新作トごてごてに成十五日の夜新作がする後にて四時ごろ新右が又する」まるで夜這い競争のような様相になってしまった。

明治42年(1909)6月には「明治42年1月のかんばんあまりあほらしいて此長にはかきませぬ たびばかりかく事」60歳を超えて下り坂の文我は、大阪での出番がめっきり減った上に出演順も悪くなり、「あほらしいて」書かなくなったというのである。年老いて旅に生きる芸人。人生の秋を感じさせる。

当時の芸人(おそらく庶民)は、書物から文字を知ったのではなく、耳から入った言葉に文字を当てはめていったのだろう。不思議な仮名遣いや素朴な当て字の間から、当時の上方人の口吻が生き生きと浮かび上がってくる。いつしか100年前の文我師匠に感情移入してしまうのだ。

こうして紹介していると、「文我出席控」は誰でも読めるように錯覚してしまうが、そうではない。今となってはわからない符牒や省略語、あだ名などが頻出しているし、筆跡も明瞭でない部分がある。逐一判読する作業は難渋を極めた。上方の寄席芸能史を研究する「大阪芸能懇話会」の手で、月一度の購読会が開かれ、一つ一つの文章、言葉について吟味、検討が行われたのだ。今回、我々が「桂文我出席控」を易々と理解できるのは、実に12年に及ぶ「大阪芸能懇話会」の翻刻作業の賜物なのだ。(もっとも、大学教授を含めた大の大人が寄り集まって「これは夜這いのことでしょうか」などと言い合っている図は珍妙であり、楽しくもあるが

 

二.東西を渡り歩いた数奇な運命

 

 

この「桂文我出席控」が「幻の史料」と呼ばれたのには、少々込み入った事情があった。この史料は大正15年(1926)文我の死後、五代目笑福亭松鶴の手元に渡った。(経緯は不明)四代目桂米団治(米朝の師匠)や落語研究家渡辺均(毎日新聞社)によって重要性が見出され、一時は出版する話も持ち上がったが、戦争によって果たせなかった。戦後、五代目松鶴の死去とともに、「桂文我出席控」は六代目笑福亭松鶴が継承した。昭和30年代のはじめ、再びこの史料の出版の話が起こった。東京の落語研究家I氏が出版を思い立ち、六代目三遊亭円生が仲介し、期限付きで六代目松鶴から拝借することとなったのだ。六代目円生は、生粋の東京落語の巨匠だが、実は大阪生まれ。また、のちに「明治の寄席芸人」「寄席切絵図」などの著作をものするなど研究家としても一流だったから、この史料の価値は十二分にわかっていた。コピーなど無い当時のこととて、I氏は知人に筆写を頼んだ。ところが、この知人が「桂文我出席控」を抱えたまま失踪してしまったのだ。円生は困じ果てるが如何ともしがたく、六代目松鶴との間に気まずい空気が残ってしまった。以後、「桂文我出席控」は、その存在は誰もが知っているが、その中身を見た人はほとんどいないという「幻の史料」になってしまった。

この「桂文我出席控」の原本2冊(巻2、6)と写本1冊(5)を古書市から掘り出したのが演芸評論家の小島貞二氏である。小島氏の仲介によって昭和38年(1963)10月16日、東宝名人会の楽屋で円生は、松鶴と和解。元本と写本は松鶴に返却された。円生、小島氏、I氏の手元には青焼きが残った。それにしても、この史料が東西の落語家と極めて親しく、かつ落語史にも通じる小島氏の手に渡ったのは、奇跡だと思う。小島氏はその1ヵ月後、さらに原本1冊(4)と写本1冊(6)を入手し、同様に松鶴の手元に戻している。

こうして6冊のうち3冊と写本2冊(併せて2、4、5、6)は松鶴の手元に戻った。しかし、残る冊子(1、3)は不明のまま。この事件に懲りた松鶴は、「桂文我出席控」を門外不出にしたまま昭和61年(1986)世を去った。没後、遺族の了承を得て松鶴の資料整理をしたのが「大阪芸能懇話会」の豊田善敬氏である。豊田氏は膨大な遺品の中から原本3冊を発見、しかし写本は見つからなかった。そこで、青焼き(5)を小島氏から借りて、翻刻を開始したのだ。(余談ながら私は豊田氏の松鶴宅の資料整理に付き合ったことがある。古い押入れから実にさまざまな資料が現れ、古代遺跡の発掘を見る思いがしたものだ)

初代桂文我は、有名な桂春団治の師匠として知られている。一時期は芝居噺で人気を博し「おんばどん」というあだ名で親しまれたが、戦国時代のような様相を呈した全盛期の上方落語界にあっては、大きな力をもたず、明治末年頃から次第に衰え、最後は落剥して娘の嫁ぎ先金沢で一生を終えたようである。

初代文我没して75年余。東西の落語界を往来する数奇な運命をたどった果てに、貴重な史料が誰にでも読めるようになった。そして無邪気で粋で、奇特なひとりの寄席芸人の風貌がいきいきとよみがえった。採算がとれるとはとても思えない出版に尽力した研究者もこれまた奇特、上方文化の健在を証明したといえるだろう。

初代桂文我

「桂文我出席控」は全4冊 各2000円大阪 千日前の「波屋書店」で販売。TEL06-6641-5561

 

▲はなしTOPへ

和の学校TOPへ