第九回

東と西の間で

一.落語界のシーラカンス

 

昭和58年(1983)12月、名古屋市の大須演芸場で、ある古い噺家の独演会が五夜連続で催された。

雷門福助。当時82歳。東京深川に生まれ、22歳のときに六代目雷門助六に入門。耳が福々しかったので福助と名づけられた。師匠の助六が名古屋で「助六興行部」を作った際に行動をともにし、それが機縁となって昭和初期から名古屋に住み着いた。名古屋では小落語会やお座敷に出演するかたわら、旅館の主におさまる。爾来50年余、地元では芸人の団体「名芸互助会」の会長を務めるなど長老として遇されていたが、中央では全く忘れ去られた存在になっていた。

私たちは正直のところ、もの珍しさだけで大須に足を運んだ。半玄人的な老人から、昔の落語の残り香だけでも感じることができたら御の字だ。しかし、当夜、高座に登場したのは正真正銘の江戸前の噺家だった。威勢のいい口調、懐かしいような言葉遣い。昔の寄席の風情漂うお題噺も結構なものだった。もう手の届かないところに行ってしまった志ん生、文楽の時代に触れた実感があった。

このときの高座は「落語界のシーラカンス」というキャッチフレーズでレコード、テープ化され、そこそこの好評を博した。

福助のレコード、テープ(現在は販売していない)の発売時の雑誌広告

 

二.芸どころ 名古屋

雷門福助が昔の芸風をそのまま保てたのは、一つには福助が旅館の主として自適する身だったことがある。芸を荒らすような舞台には立たなくてすんだのだろう。しかし同時に、名古屋という「芸どころ」に居を構えていたことが大きい。

「芸どころ名古屋」。江戸、東京と上方の中間に位置する最大の都市で、東西のさまざまな興行が盛んに行われ、お客の目が肥えていることから生まれた言葉だ。江戸時代中期、八代将軍徳川吉宗が質素倹約を旨とする「享保の改革」を断行したときに、尾張藩主徳川宗春は公然と反旗をひるがえし、自ら遊里にあそび、芸事を奨励した。宗春は失脚し、強制的に隠居させられたが、その「遊び人」の精神は名古屋に脈々と息づいているようだ。そういえば、「元禄御畳奉行の日記(鸚鵡楼中記)」を遺した芝居好きの風流人、遊蕩の果てに45歳で没した朝日文左衛門も尾張藩士だった。

名古屋の良いところは東の芸も西の芸も、そのまま受け入れるところにあるといえるかもしれない。他の地方では、芸人がその土地の方言を使うよう有形無形の圧力をかけられたり、お国自慢を盛り込まされたりすることが多い。地方に移住した芸人は、いつのまにか泥臭く(よく言えば素朴)、くどく濁った芸風になりがちである。

しかし名古屋は観客が大人で、地元色に染まることを強制したり、贔屓の引き倒しめいたことをしない。福助が芸風を保てたのは、江戸前を江戸前のまま愛した名古屋人がいたからだろう。

三.青春の大須演芸場

雷門福助が独演会を開いた大須演芸場は名古屋で唯一の寄席。何度も廃業の危機に見舞われたが、そのたびに奇跡的に命脈を保ってきた。

この寄席は、あたかも河口の汽水域に海産魚と淡水魚が混泳するように、東西の芸人が一枚のプログラムに名を連ねる珍しい寄席である。この寄席への出演がきっかけとなって、東西の噺家の交流がはじまることもしばしばあった。楽屋は宿泊ができるようになっていて、前座クラスは興行期間中ここで寝泊りをした。今の師匠連のなかには、楽屋のせんべい布団に身をくるんで、言葉の違う芸人と芸談を語り明かした思い出を持つ人が少なくない。いわば、青春の舞台でもあるのだ。

雷門福助は独演会から2年半後、満84歳で世を去った。今、名古屋では愛弟子の雷門小福が活躍している。また、大須演芸場をホームグランドとして三遊亭歌笑、柳家小三亀松、大須 くるみ 、かつら竜鶴などの芸人が活動している。東京の芸界出身の人、地元で生まれ育ち、来演する東西の芸人に芸を教わった人、経歴はさまざまである。

大須演芸場のある大須観音通りは昼間でも閑散としている。正直言って、ここを維持するのは非常に苦しいと思われるが、「芸どころ名古屋」の火を消さないためにも応援していきたい寄席である。

 

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