第十一回

亭号の東西史(二)

江戸落語の名流 三遊亭

東京、江戸落語の代表的な亭号、三遊亭は、実質的な江戸落語の鼻祖烏亭(立川)焉馬の高弟、初代三遊亭円生からはじまる。門弟に二代目円生、金原亭馬生、古今亭志ん生、三升家小勝などが出る。今は別個の大看板の名となっている馬生、志ん生、小勝などはもともと円生の系統から発生しているのだ。

三遊亭が江戸、東京で第一の亭号となったのは、二代目円生の門下に三遊亭円朝が登場してからのことである。円朝は幕末期には芝居噺で現在のアイドルなみの人気を誇り、明治維新後は一転して扇子一本の素噺で大家となった。人情噺を多くものにし、古典落語のスタイルも確立した。また、円朝の高座を速記した本は、口語文学として多くの文人に影響を与えた。現代の口語文、そして日本語の形成に円朝は多大な貢献をしたとさえ言われている。

門弟が実に多彩である。珍芸で売れた円遊、萬橘、円太郎。名人の名をほしいままにした三代目、四代目円生、四代目円喬、四代目円蔵。現在、東京で三遊亭を名乗る噺家は何らかの形で円朝の門流ということができる。まさに「江戸落語の大樹」というべき偉人だった。

三遊亭・橘家・立花家

三遊亭系図参照

さて、前回もご説明したが、落語の亭号には「メインの亭号」「サブの亭号」とでもいうべき区別がある。三遊亭のサブの亭号は橘家。

初代三遊亭円生の門弟は一人前になるとそれぞれが別の亭号を名乗った。先ほど述べた金原亭馬生、古今亭志ん生、三升家小勝などがそれだが、そのひとりだった橘屋円蔵(当時は家ではなく屋)が二代目三遊亭円生を襲名したことから、橘家は三遊亭の中に取りこまれた。橘家円蔵は、代々が三遊亭の有力な噺家が次ぐこととなった。五代目、六代目の円生が名乗ったほか、長命であったなら当然円生になったであろう四代目橘家円蔵もそうである。

いつのころからか三遊亭と橘家の亭号には使い分けをする慣習が生まれた。円朝、円生、円歌など、雅号、俳名的な芸名の亭号は三遊亭、円太郎、円蔵など一般の人名、俗称的な芸名の亭号は橘家。明治時代でも本来三遊亭であるべき円喬の亭号が橘家であるなど混乱は一部にあったが、その使い分けは一応守られてきた。推測するに、これは江戸の噺家に浅からぬ影響を与えた歌舞伎役者が芸名(役者名)の他に、俳名、屋号をもっていたことと関連があると思う。例えば五代目尾上菊五郎は、芝居に出るときは菊五郎、句会では俳名の家橘、梅幸、そして楽屋や贔屓からは音羽屋と呼ばれたが、そんな慣習を落語家たちが真似たのではないかと思う。また「円」の字は芸名の頭または中に配し、下につけないことも慣行となった。

さらに落語以外の芸(色物)に転じた芸人は他の亭号に変えた。女道楽(音曲)で、女将軍の異名をとった名人立花家橘之助(山田五十鈴主演の「たぬき」はこの橘之助の半生記)も円朝には孫弟子にあたるが、落語家でないので立花家を名乗った。色物と落語の区別を最も厳格にしたのも三遊亭だった。

上方への流出

初代三遊亭円朝が明治33年(1900)に没してからも、三遊亭の流派は繁栄した。夏目漱石をして名人と言わしめた柳家小さんらの率いる「柳派」が落とし噺を得意としたのに対し「三遊派」は長講の人情噺を本筋とした。

そして、上方にも三遊亭を名乗る噺家が移り住むようになった。円朝の高弟、二代目三遊亭円馬が大阪の空堀に住んで「空堀の円馬」と呼ばれたことはすでに紹介した。ただしこの円馬は上方にあって江戸落語の孤塁を守り、上方の弟子をとることもなかったようだ。より深く上方落語とかかわったのはこの円馬の実弟、初代橘ノ円である。(橘家ではなく、橘ノとしたのは円という一字名とのバランスによるのだろう)。円は、上方を拠点として全国を巡演する芸人の一座を組織したが、上方出身の噺家を数多く門弟にした。円の門で特筆すべきは橘ノ円都であろう。円都は七代目桂文治門から円のもとに転じ、橘家円歌と名乗ったが、桂小文治とともに東京の落語界に進出したときに初代三遊亭円歌との混同を避けて橘ノ円都と名乗った。この円都は大阪に戻った後、一時廃業していたが、戦中に復帰し、戦後は昭和46年(1971)に没するまで故松鶴、米朝、春団治、文枝らを教え導いた上方落語の大恩人である。弟子に橘家円三がいる。円三は今は米朝一門に身を寄せているが、橘ノ円の系譜の最後のひとりと言って良いだろう。

橘ノ円は、名人立花家橘之助の夫としても知られている。大スターである妻には終始尻に敷かれっぱなしだったようだが、晩年は京都に仲良く住んだ。(昭和10年6月の大雨で住家もろとも土石流に押し流され、夫婦ともに悲惨な最期をとげた。)この立花家橘之助も噺家の弟子をもった。三代目三遊亭円馬が橘之助の身内になって東京落語に転じたことはすでに紹介したが、上方で橘之助門となり、立花家を名乗った噺家も数多い。立花家千橘、花橘らは多くのSPレコードを吹きこむなど売れっ子となった。花橘も戦後数年を生き、当時の若手に噺を伝えている。また立花家千橘は、近年露の五郎門下の露の団丸が襲名した。

円と橘之助は夫婦だったが、二人の弟子は別々だったようだ。戦前の上方には橘、橘家、立花家を名乗る噺家、色物芸人が数多い。上方では三遊亭、橘家の使い分けや、落語、色物の区別もなくなり、東京では考えられない芸名も数多く見られた。なお、明治後期から大正期には橘家円太郎、三遊亭円遊など生粋の東京の噺家も上方の番付に名を連ねている。彼らは「東京連」と呼ばれたが、こうした交流も日常的にあった。

漫才の三遊亭

さて、戦後、漫才が興隆し、一世を風靡したコンビが幾組も生まれたが、この中に三遊亭柳枝・南喜代子、三遊亭小円・木村栄子、という三遊亭を名乗る漫才師がいた。三遊亭の亭号に柳派の大看板の名である「柳枝」を組み合わせたり、円で終わる芸名をつけたり、そして何より漫才師が三遊亭を名乗ることさえも東京では考えられない。寄席に詳しくなくても不審の念を抱いた人は多いのではないかと思うが、柳枝、小円はいずれも三遊亭円子という明治大正の芸人の門下である。この円子は東京の人。歌舞伎役者、囃子方から落語に転じ三遊亭萬寿を名乗る。しかし、師匠はいなかった。のちに円子と名乗り、上方で落語と鼓、踊りで人気を博した。どちらかといえば色物系、しかも勝手に三遊亭を名乗るなどイレギュラーな芸人人生だったようだが、戦前、怪談噺で売った三遊亭志ん蔵などの弟子も多かった。柳枝、小円はその系統なのだ。

柳枝の弟子には上方柳次・柳太、柳サンデー・マンデーなどがいた。またミヤコ蝶々もその弟子だった(柳枝は蝶々の最初の夫でもある)しかし、柳枝は弟子の誰にも三遊亭の亭号は名乗らせていない。東京の三遊亭に遠慮したというよりは、漫才では三遊亭はメリットのない亭号だったからだろう。

三遊亭小円は晩年、しばしば落語の高座に上がった。昭和初期に七代目桂文治門の噺家から漫才に転じた小円にとっては数十年ぶりの落語だったが、古風な香りのする繊細できれいな口跡だった。この小円を最後として三遊亭を名乗る上方芸人は途絶えた。

三遊亭は上方ではどこかマイナーな、しかし逞しい芸人根性のにじんだ亭号だったように思えるのである。


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