第十二回

亭号の東西史(三)

江戸から上方に伝わった林家

落語という芸能は、基本的に西から東へと伝わった。落語の演目しかり、落語のスタイルしかり。噺家自体も、当初は鹿野武左衛門をはじめ、上方から江戸へと下った芸人がパイオニアとなった。亭号も桂は上方から江戸へと伝わった。三遊亭は確かに江戸発祥だが、上方で三遊亭を名乗ったのは、あくまで少数の、しかも色物中心の芸人だった。それに対して、林家は純然たる江戸の噺家に端を発して、上方でも多くの人気者、実力者を輩出し、桂、笑福亭に次ぐ三番目の勢力となった。これは珍しい例だといえるだろう。

また、もともとの林家の系譜は東西ともに絶えて久しいが、他の系統の噺家がその亭号を名乗って一門を栄えさせている。林家は、その名のとおり門流が繁茂する縁起のよい亭号だと思われていたのだろう。このユニークな系譜をたどってみよう。

林家系図

個性派が続々の江戸、東京

 

林家(はじめは林屋)の始祖、初代林屋正蔵は江戸落語中興の祖といわれる初代三笑亭可楽の門人。同時に初代三遊亭円生とも近かったようで、後には三遊亭の身内になったようである。話術良し、怪談話でも売った名手、幕末(1842年)に没するまで人気を保った。

この初代“怪談の正蔵”に象徴されるように、代々の林屋(林家)正蔵は、それぞれが個性的で、“○○の正蔵”と二つ名で呼ばれる人が多かった。二代目の林屋正蔵は千住焼場の僧出身で僧侶時代の名をとって“沢善正蔵”と呼ばれた。今も人気のある「こんにゃく問答」「野ざらし」という抹香臭い落語の作者だといわれている。四代目正蔵は、怪談を得意とし、麻布我善坊に住んだので“我善坊の正蔵”、そして続く五代目は文政7年(1823)に生まれ、大正12年(1923)没。つまり太田蜀山人が没した年に生まれ、佐藤愛子さんが生まれた年まで一世紀生きていた。その名も“百歳正蔵”。落語史上最長寿。晩年はその老齢を売り物にして地方を回ったという。

林家の当初の系統は“百歳正蔵”で絶えてしまう。名跡を継いだのは柳派の柳亭小燕枝。当時沼津に隠居していた“百歳正蔵”のもとを訪れ、名跡を譲り受けた。この六代目も異色。能弁で、赤いオートバイで寄席の楽屋入りをしたという。六代目以降は、林家正蔵の名跡は異なる系統を渡り歩くようになる。七代目は、大正期の大人気者柳家三語楼の門人、柳家三平がついだ。七代目林家正蔵は「どーもすいません」「体だけは大切にしてください」という愛嬌あるフレーズで人気者となった。その長男が、あの林家三平。芸名も、フレーズも父親譲りだったのである。

七代目正蔵の没後、現柳家小さんとの小さん襲名争いに敗れた蝶花楼馬楽が「一代限り」という約束で八代目林家正蔵を名乗った。春風亭小朝の大師匠。晩年の枯れた高座は記憶に新しい。この八代目正蔵は、林家三平に名前を譲るつもりでいたが、三平が先に没したので晩年は彦六と名乗っている。今、九代目林家正蔵の名跡は林家こぶ平のもとにある。七代目正蔵、三平と続く落語家一家に育ったこぶ平がこの名を名乗る日が来るのだろうか。

東京の林家でもう一つ記しておくべきは、「紙切り」の林家の系譜である。六代目林家正蔵の門人の林家正楽によって確立されたこの芸は、八代目林家正蔵の門人で訛りに悩み続けた正楽に、そして今の正楽へと受け継がれた。今では寄席に欠かせない色物である。

現在、東京の林家は七代目系と八代目系の二系統。それぞれに異彩を放つ芸人が輩出しているのが林家らしいといえようか

四代目林家染丸(襲名時の写真)

上方落語の恩人を生む

上方の林家(屋)の始祖は初代林屋正蔵の孫弟子で、備中(岡山県)出身の初代林屋正三。ただし、その前に音曲噺「天下一浮かれの屑より」の作者林家蘭丸や、玉蘭という噺家がいたとされるが、その詳細や江戸との関連はわかっていない。今では初代正三が上方の林家の始祖とされる。この正三の系統からは「不動坊」「猿廻し」「後家馬子」などの落語の作者、二代目林家菊丸が出ている。しかしこの系譜も昭和初期、神戸で活躍した六代目林家正楽あたりで絶える。かわって、四代目笑福亭松鶴襲名争いに敗れた笑福亭松喬が二代目林家染丸を名乗ったことで、新たな系譜が生まれた。このあたり、東京の事情と通じる部分がある。

二代目林家染丸は、戦後上方落語の大恩人の一人である。自身も昭和27年(1952)まで生きて、後進を指導し、三代目林家染丸、三代目林家染語楼という二人の門弟を遺した。さらに、夫人の林家とみは寄席の下座囃子の伝統を伝える最後の一人として昭和45年(1970)まで多くのお囃子の弟子を育てた。この林家染丸の系統には、故林家小染、そして現上方落語協会副会長で「和の学校」でもお馴染みの四代目林家染丸がいる。現染丸門下は多士済々。今後上方落語四天王の一門に拮抗する勢力になるものと思われる。(余談ながら、筆者は笑福亭松之助から、明石家という亭号は、松之助の本名明石徳三から取ったが、笑福亭のサブの亭号である林家と“音”が一緒であることも意識したと聞いたことがある。現在の林家を笑福亭の系譜とする見方も生きているのだ)

さて、上方元来の林家の系譜は一本の血脈で戦後へとつながっていた。六代目林家正楽の娘は五代目笑福亭松鶴に嫁ぎ、六代目松鶴を生んでいるのである。松鶴の子は桂枝雀らと同世代で将来を嘱望された五代目笑福亭枝鶴。残念ながら廃業してしまったが、一時は“四代続く落語の系譜”と話題になったものである。

 

東西の林家の系譜を見てくると、落語における「血」と「芸」の継承とは何なのか、ということを考えさせられる。平凡なようだが「血」も「芸」も、絶えてはおしまいなのだ。東西の歴史の折々で林家は絶妙のつなぎ役を果たしたのだということがいえよう。

 

 

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