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一
江戸から上方に伝わった林家
落語という芸能は、基本的に西から東へと伝わった。落語の演目しかり、落語のスタイルしかり。噺家自体も、当初は鹿野武左衛門をはじめ、上方から江戸へと下った芸人がパイオニアとなった。亭号も桂は上方から江戸へと伝わった。三遊亭は確かに江戸発祥だが、上方で三遊亭を名乗ったのは、あくまで少数の、しかも色物中心の芸人だった。それに対して、林家は純然たる江戸の噺家に端を発して、上方でも多くの人気者、実力者を輩出し、桂、笑福亭に次ぐ三番目の勢力となった。これは珍しい例だといえるだろう。
また、もともとの林家の系譜は東西ともに絶えて久しいが、他の系統の噺家がその亭号を名乗って一門を栄えさせている。林家は、その名のとおり門流が繁茂する縁起のよい亭号だと思われていたのだろう。このユニークな系譜をたどってみよう。
林家系図
二
個性派が続々の江戸、東京
林家(はじめは林屋)の始祖、初代林屋正蔵は江戸落語中興の祖といわれる初代三笑亭可楽の門人。同時に初代三遊亭円生とも近かったようで、後には三遊亭の身内になったようである。話術良し、怪談話でも売った名手、幕末(1842年)に没するまで人気を保った。
この初代“怪談の正蔵”に象徴されるように、代々の林屋(林家)正蔵は、それぞれが個性的で、“○○の正蔵”と二つ名で呼ばれる人が多かった。二代目の林屋正蔵は千住焼場の僧出身で僧侶時代の名をとって“沢善正蔵”と呼ばれた。今も人気のある「こんにゃく問答」「野ざらし」という抹香臭い落語の作者だといわれている。四代目正蔵は、怪談を得意とし、麻布我善坊に住んだので“我善坊の正蔵”、そして続く五代目は文政7年(1823)に生まれ、大正12年(1923)没。つまり太田蜀山人が没した年に生まれ、佐藤愛子さんが生まれた年まで一世紀生きていた。その名も“百歳正蔵”。落語史上最長寿。晩年はその老齢を売り物にして地方を回ったという。
林家の当初の系統は“百歳正蔵”で絶えてしまう。名跡を継いだのは柳派の柳亭小燕枝。当時沼津に隠居していた“百歳正蔵”のもとを訪れ、名跡を譲り受けた。この六代目も異色。能弁で、赤いオートバイで寄席の楽屋入りをしたという。六代目以降は、林家正蔵の名跡は異なる系統を渡り歩くようになる。七代目は、大正期の大人気者柳家三語楼の門人、柳家三平がついだ。七代目林家正蔵は「どーもすいません」「体だけは大切にしてください」という愛嬌あるフレーズで人気者となった。その長男が、あの林家三平。芸名も、フレーズも父親譲りだったのである。
七代目正蔵の没後、現柳家小さんとの小さん襲名争いに敗れた蝶花楼馬楽が「一代限り」という約束で八代目林家正蔵を名乗った。春風亭小朝の大師匠。晩年の枯れた高座は記憶に新しい。この八代目正蔵は、林家三平に名前を譲るつもりでいたが、三平が先に没したので晩年は彦六と名乗っている。今、九代目林家正蔵の名跡は林家こぶ平のもとにある。七代目正蔵、三平と続く落語家一家に育ったこぶ平がこの名を名乗る日が来るのだろうか。
東京の林家でもう一つ記しておくべきは、「紙切り」の林家の系譜である。六代目林家正蔵の門人の林家正楽によって確立されたこの芸は、八代目林家正蔵の門人で訛りに悩み続けた正楽に、そして今の正楽へと受け継がれた。今では寄席に欠かせない色物である。
現在、東京の林家は七代目系と八代目系の二系統。それぞれに異彩を放つ芸人が輩出しているのが林家らしいといえようか。

四代目林家染丸(襲名時の写真)
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