ここでは美術工芸についてまとめています。
日本人はどんなものを美しいと思い、慈しんできたのか。
暮らしの中に、どのように取り込んできたのか。
その技と、美意識を探っていきます。


絵画 浮世絵 陶磁器 漆器 日本人形

(学研「日本タテヨコ JAPAN AS IT IS」より)



【絵画】

日本画は緑青、辰砂などの岩絵具や墨を、にかわ水で溶いて、毛筆で紙、絹布、などに描く
ものである。

西洋絵画の油絵は、顔料を油で溶くことによって色を自由に混ぜ合わせ、好みの色彩が得られるが、日本画ではそれはできず、また、重ね塗りもできない。
日本画には単色画と彩色画がある。単色画には、墨の線だけによる「白描」と、墨の濃淡によって物体の量感や空間を表す「水墨画」がある。
いずれも中国から伝わった技法であり、白描は平安時代末の「鳥獣戯画」絵巻が代表的なもので、水墨画は室町時代の雪舟によって日本的な水墨画が生み出されたとされている。 彩色画は当初は仏画として移入された。
この技法が根付くのは平安時代になってからで、四季の草花や自然、風俗などが柔らかい線と穏やかな色彩で描かれた。
これを「大和絵」と言う。

■絵巻物
中でも、平安時代末、鎌倉時代初めから盛んになった日本独自の型式が絵巻物である。
絵画と、その説明を何枚も並べて、長い巻物にしたもので、寺の縁起や人物の歴史が」、時間を追って展開され、全体で一つの物語を作っている。
『源氏物語絵巻』などが代表作。

■障屏画
室町時代末期から安土・桃山時代にかけて、中国・宗の絵画と大和絵を融合させた狩野派の絵画が寺や城の装飾に用いられた。
これらは「障屏画」と呼ばれ、障子や屏風などの大画面に花鳥や人々の風俗などを豪華けんらんに描いた。狩野永徳、長谷川等伯らが代表的画家。さらに江戸時代初期には、俵屋宗達、尾形光琳などが現れ、それまでのさまざまな伝統的な画風を自由な立場で独自に発展させた。

洋画 日本が洋画にもたらされたのは江戸時代末期で、オランダから写実的画法が入ってきた。

明治維新後、黒田清輝、浅井忠らがフランスへ留学し、当寺最新の印象派の影響を受けて帰り、藤島武二、青木繁、坂本繁二郎らに伝えた。
他方日本画も、岡倉天心に率いられた菱田春草、横山大観らが、写実を加えて近代化を図った。
だが、今日も日本の絵画は版画、抽象画を除き、日本的な感性と市場性ゆえに、国際舞台に出る画家は少ない。


【浮世絵】

江戸時代に、江戸を中心に風景や庶民の風俗などを描いた、主として多色刷りの版画を浮世絵と呼ぶ。
当寺「浮絵」と呼ばれていた歌舞伎や遊里の風俗を描いたためにこの名がある。
こうした風俗画が現れるのは江戸時代初期の1670年代で、菱川師宣が墨一色摺りによる木版画を売り出し、師宣は浮世絵の創始者と呼ばれている。

■春信、歌麿、写楽
18世紀半ば、歌舞伎の繁栄、出版の隆盛などから浮世絵の人気が高まり、また木版技術の進歩もあって、多色刷りの浮世絵である錦絵が鈴木春信によって作られた。
春信は美人画を描き、また、多色刷りゆえ、背景も描けるようになった。
この美人画の様式を独自に発展させたのが喜多川歌麿で、雲母摺という、背景に雲母を入れて輝きを出した美人の上半身像で(これを大首絵と言う)、女性の肉体美を優美に描き出した。
大首絵で女性美を表した歌麿に対し、歌舞伎の役者の表情の変化から内面の性格までを、芸術性高く描き出したのが東洲斎写楽である。
1794年5月から翌年2月までの10か月、江戸で上演された歌舞伎の役者の絵ばかり約150種を描いて、すい星のように消えていった写楽が、どんな人であったかのかわかっていない。

■北斎、広重
19世紀に入ると、美人画・役者絵は多数描かれるが、芸術性の高いものは失われていく。この時代に浮世絵に新風を送り込んだのが葛飾北斎と安藤広重で、新しいテーマとして風景画を創出した。
北斎は西洋銅板画の影響を受けて風景画を志したと言われており、『富嶽三十六景』で、大胆な構図と色彩を見せて人気を得、以後各地の名所などのシリーズ描いた。90歳まで生きて、木版画ばかりでなく、肉筆画も多く残している。広重は『東海道五十三次』のシリーズで、日本の自然と旅行く人々を叙情豊かに描いて北斎をしのぐ人気があった。
後に『木曾街道六十九次』など、日本各地に題材を取ったシリーズものを作った。
浮世絵は、19世紀のヨーロッパにもたらされ、その大胆な構図や色彩のコントラストだけで陰をつけない画法などが、ドガ、マネ、ゴッホらの印象派の画家に衝撃を与えた。近代美術への影響の大きさは、日本国内より欧米で高く評価されている。



【陶磁器】

日本では約一万年前から土器が作られ、その時代・様式によって縄文土器、弥生土器の名が付けられているが、陶磁器が作られるのはずっと後になる。日本では木工が盛んであるうえ、漆の技術が早くから発達していて、日常雑器にはこれらを用いていたからである。

■陶器
日本最初の陶器は、奈良時代に中国の唐三彩を模して作られたと思われる奈良三彩と呼ぶ白・緑・茶の釉薬を用いたものである。
その多くが正倉院に伝わっているものであるため、正倉院三彩とも呼ばれている。奈良三彩の後、日本では約500年近く陶器は作られず、この間は須恵器と呼ぶ灰黒色の硬く焼き締めた土器が日本全国で作られたが、それも平安時代末期にはほとんど姿を消してしまった。
本格的な陶器が焼かれるのは鎌倉時代で、瀬戸の藤四郎という人が、中国から技術を移入したもので、壺や水差し、香炉、仏具などが作られた。

この後室町時代に至るまでの間に瀬戸のほか、信楽、常滑、丹波、備前、越前で陶器が作られるようになり、これらを日本の六古窯と呼んでいる。
戦国時代を経て豊臣秀吉により天下統一が成され、茶の湯が盛んになるに従い、瀬戸の陶工が移った美濃で志野、黄瀬戸、織部など、日本独特の味わいをもつ茶碗が作られ、ほかに信楽、伊賀、備前、京都などでも茶器が盛んに焼かれた。
加えて、秀吉による朝鮮侵略の際、大名たちが朝鮮の陶工たちを連れ帰って各地に窯を作り、陶磁器作りは大変盛んになった。

■磁器
日本の磁器作りは、1616年朝鮮の陶工李参平が肥前有田で磁器焼成に成功した時をもって始まったと伝えられる。
さらに酒井田柿右衛門が色絵を始めたことにより、有田の磁器は大変有名になり、その後オランダとの貿易を通じて、ヨーロッパにも伝えられるようになった。
その積み出し港が伊万里であったため、「伊万里焼」とも呼ばれ、ヨーロッパでももてはやされた。
特にドイツのザクセン王アウグスト2世は、ドレスデン城内に陶磁器研究所を作り、多くの伊万里焼のコレクションを研究し、後にマイセン窯を作って、ヨーローッパでも磁器を作るようになった。
日本の陶磁器作りは時代を下るに従い盛んになり、全国各地から窯が築かれ、江戸末期には日常雑器もすべて陶磁器を用いるようになった。
ことに瀬戸では有田から磁器製法を学び、日常雑器を盛んに作ったため、陶磁器一般を「せともの」と呼ぶようになり、現代に至っている。



【漆器】

漆器は木・竹・布などの製品の上に、漆の木から取った天然のラッカー(塗料)を塗りつけたもので、日本、中国をはじめ東南アジア一帯で2千数百年も昔から用いられてきた生活工芸品である。

英語で陶磁器がchinaと呼ばれるのに対し、漆器はjapanと呼ばれる。
それは、陶磁器が中国で高度に発達し、元時代から世界に輸出されていたのに対し、漆器は日本で家具・武器・食器・生活雑器などに幅広く使われ、さらに美術工芸品としても発達し、15、16世紀にポルトガル・オランダとの貿易によってヨーロッパに広く紹介されたからである。


■漆器の歴史
漆の木の原産地は中国またはチベットと言われ、これがアジア各地に広まったものである。
漆器は、日本では約2000年前の縄文時代のものが出土しているが、漆器作りの技法が中国から伝わったものか、日本で独自に発展したものかは意見が分かれている。
ただ、技術が飛躍的に進歩したのは、6世紀に入って大陸との交流が活発になり、中国の優秀な技術が輸入されたためである。
このころになると、実用品ばかりでなく、美術工芸品としての価値をもつものも作られるようになった。 しかし、それまでの漆器の用途として最も多かった食器は、江戸時代末ごろから陶磁器が広く使われるようになり、また明治以後は金属器も使用され、塗料も化学塗料が作られたため、漆器は伝統工芸品や、美術工芸品としてのみ生き残るようになった。
現在も輪島塗、会津塗、春慶塗などが作られている。


■漆器の利点
古来、漆が使われてきたのは、接着剤としての機能、塗料として木・竹・布などを保護する機能、そして色素を混ぜることによって装飾の機能をもつからである。
出土品の例から見ると、古代には主に武器の接着・保護剤として弓、刀のつかなどに用いられ、次いで、木製の食器類などの保護塗料として、後に装飾性も加わり、家具などにも広く用いられるようになったようである。乾燥した後の漆は非常な強度をもっており、奈良時代には、目芯の上に麻の布で成型し、漆を何度も塗り、さらに麻布を重ねるという技法で、仏像を作ったほどである。
これらは乾漆仏と呼ばれているが、奈良・興福寺の国宝八部衆立像、十大弟子立像など、等身大の像が1200年後の現在も細部に至るまで完全な形を保っている。


【日本人形】

日本人にとって人形は、大昔から縁の深いものであった。古墳時代の埴輪はその好例だし、文楽は、人形が芸術にまで高められたケースである。子供たちが人形相手に遊ぶのも、平安時代にすでに始まっているし、魔よけや呪術的意味合いからも、人形は用いられてきた。

■ひな人形と武者人形
年中行事のなかにも、人形は組み込まれている。なかでも女の子の祭である3月3日のひな祭りにはひな人形を家庭に飾り、子供たちの幸福を願って白酒を飲む。 また5月5日は男の子の節句で、雄々しく育つようにと武者人形を飾る。ひな人形も武者人形もいずれもその期間に限って飾られ、後はまた翌年までしまわれる。中には代々何百年も伝えられた、家宝のような人形もある。今日まで多分に儀式化し、またデパートなどの商業主義に利用されがちだが、人形に託しての夢や幸せへの願いは、依然生きていると言えよう。

■博多人形とこけし
郷土玩具にも、人形は多数見られる。中でも今日、最もポピュラーなものは、博多人形とこけしである。博多人形は九州・博多の特産で、粘土で型を作り、素焼きにしてから彩色を施したもの。写実的で彩色も繊細、題材は子供から老人、歌舞伎役者、力士などきわめて幅広く、鑑賞用に愛好されている。こけしは東北地方の木製人形で、ろくろでひいた円筒状の胴に丸い頭を付け、女の子の顔を描き、胴体には赤や紺、黄などの2、3色で花や線の模様を描く。同じ東北でも場所によって形と模様が異なり、8〜10の系統に分かれ、こけしを見れば産地がわかる、こけしは子消しに由来するという説もあるが、今日ではもっぱら観賞用に製造販売されている。

■木目込人形・嵯峨人形・御所人形
今日もなお日本人形として広く愛されているものに、木目込人形、嵯峨人形、御所人形などがある。木目込人形は、木彫の人形原型に各種のきれ地をはって、端を溝に埋め込む手法で作り、これをきめ込むと言うところからこの名がある。嵯峨人形は、木彫に金箔や絵具で色彩を施した小人形。御所人形は、江戸時代の京都の公卿たちが大名に対する贈答の返礼として与えていたもので、肌の白い、頭の大きな幼い男児の裸人形である。さらに現代はこうした伝統的な日本人形ばかりでなく、新しい人形の創作活動にも盛んに行われている。


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