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帆布袋とはー
帆布(キャンバス地)とは1平米あたり8オンス(227g)以上の綿や麻で織られた厚手の織物です。その帆布を使って業務用の牛乳配達袋から登山用のテントまで、幅広い商品を作りつづけてきたのが「一澤帆布」です。今では多くのファンを持つ「かばん」のブランドになったその魅力とこだわりをご紹介いたします。
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| 一澤帆布の歴史 |
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西洋洗濯
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西洋バンド
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初代 一澤喜兵衛氏はハイカラ男。
もとはお坊さんの衣を作る家に生まれましたが 明治19年に京都に初めてドライクリーニング店を開業しました。 |
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文明開化の時代の波の中、神戸の租界地に刺激を受け「京都バンド」を結成。無声映画や舞台の興行などで活躍しました。
その頃に家一軒くらいの値段だったミシンを買い、 天幕や帆布袋を作り出しました。 |
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広告入り袋
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戦時中のかばん
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喜兵衛氏の息子、二代目の常次郎氏になって本格的に帆布作りを始めました。
はじめはシンプルなバッグにお店の広告を刷って作ったり、職人さんの道具入れを作っていましたが、やがて戦中戦後には肩から掛けるかばんを作り、戦後にはリュックサックや学童用のランドセルも作りました。 |
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新聞広告
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戦後には新聞広告も出しましたがコピーもデザインもすべて自分たちで作ったとのこと。
シンプルでわかりやすい、今見ても新鮮な文章ばかりです。 |
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山岳部御用達
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戦後、京都大学の探検部や山岳部、ワンダーフォーゲルの学者や学生たちに、テントやキスリングザックなどを求めに応じて作りました。
1958年、京都大学の山岳部は、ヒマラヤの高峰チョゴリザの初登頂に成功しました。その登山隊を影でサポートしたのが一澤帆布の登山用具だったのです。
「あの頃は学生さんが店や仕事場にたむろしていたのを思い出します。」と、信三郎さん。
一澤帆布の製品は、今のアウトドア用品のさきがけだったのです。
100種あまりの様々な製品が誕生しました。
下の文章は、平成13年三代目一澤信夫さんが亡くなった時に、京大山岳部OBの方々の会報誌に掲載された文章です。 |
一澤信夫さんを悼む 平井一正(京大山岳部OB)
一澤帆布会長の一澤信夫さんが三月十五日、八十五歳で亡くなった。山岳部に入部した新人が最初に買うのが一澤製のキスリングであり、多かれ少なかれ長い間山岳部員は、一澤さんにお世話になった。永六輔の「職人」(岩波新書)にも紹介された根っからの職人で、その気質、博識と軽妙洒脱なウイットとユーモアに富んだ話術、権威を恐れない反骨精神などで、登山関係者のみならず、各種の専門職人をはじめ、芸術家、作家など、各層に多くの熱心なファンを持っていた。晩年には京都の顔として雑誌などでも紹介されていた。
一澤さんが京大山岳部と関係をもった経緯は三高時代にさかのぼる。戦後まもなく山口克らが好日山荘でキスリングを作らせたが、仕事が雑で気に入らなかった。そのとき土倉さんから一澤帆布店の存在をきいて、山口が同店を訪れたのがそもそのもはじまりである。京都一中山岳部は昔から一澤さんで装備を作ってもらっていた。そういう関係で山口が土倉さん(一中OB)から一澤さんの名前を聞いたのである。山口が会ったのは、我々が知る一澤さんのお父さんであった。以後京大山岳部と一澤さんの密接な関係が始まる。
知恩院の斜め前、東大路に面した古ぼけた店のガラス戸を開けると、種々なバッグ類や作業服などが並んでいた。今と違って店はせまく奥からミシンの音が聞こえてきた。ぼろぼろになったキスリングやオーバーシューズなどをたびたび修理に持ち込んだが、一澤さんはいやな顔も見せず、見違えるように丁寧に修繕してくれた。シンプル、丈夫、というのは、その頃からのモットーであった。
1958年AACK(京都大学学士山岳会)がチョゴリザ(7654メートル)に初登頂するとき、一澤さんに登山装備を作ってもらった。企業から提供をうけた繊維製品を、こちらのデザインにあわせてテントやヤッケに加工してもらう作業は、今考えると採算を度外視したものであったと思う。当時開発されたばかりの化繊でテントを加工するときに、それまでと同じスピードでミシンをかけると、布地が丈夫なため、針が摩擦で加熱して糸が溶けるという問題が起こった。ミシンの回転数があげられない。
時間に追われる中で、そういう問題を解決しながら装備を作ってくれたことに 今更ながら感謝の念で一杯である。チョゴリザ頂上には、一澤製のラベルのついたヤッケ、防風ズボン、オーバーシューズなどが同伴した。ラベルは現在のものより小さい目で、ローマ字であった。
ヒマラヤの頂上をきわめるのは限られた人間だが、それを支持する裾野は広い。その一角に一澤さんがおられたことを忘れることは出来ない。京大だけでなく京都から出た多くの海外登山隊の活躍の陰には、一澤さんの暖かい援助があるのである。
最近では既製品が出回り、一澤さんに登山装備をお願いすることも少なくなったが、バッグ類では全国的ブランドになり、大きく発展してきた。店も見違えるように大きくなった。その一端として、ニューヨークタイムスが88年3月27日付けで、「京都のキャンバスバッグはすべてのニーズにぴったり」というタイトルで、一澤製品が写真入で大きく紹介されていた。これを語ったときの一澤さんのうれしそうな顔を忘れることができない。心からご冥福をお祈りする。
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今
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もともとは用途があって作ったものばかりでしたが今やカジュアルなファッションにあうバッグとして若者たちの間で人気のブランドとなっています。
しかし、牛乳屋さんや氷屋さん、大工さん用、 京都府警の鑑識用や、植物採集から地質学用、競馬用のゼッケンなどなど、相変わらず今もプロ仕様のものもきっちりと息長く作りつづけています。 |
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| 帆布袋が出来る工程 |
| 工房には20代から80代までの職人さんたちが生き生きと働いています。「定年はないです。元気なうちは来たらええ、と言うてます。」と信三郎さん。皆さん、手仕事が好きで、丁寧に心を込めて作っています。
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チームで作る
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生地を裁つ
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木槌で成型
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ミシンで縫う
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木槌で整える
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| デザイン |
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変わらないデザイン
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ラベル
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| 一澤帆布のブランドマークは実用的で質素そのもの。でも華やかなデザインが氾濫する中でかえってその誠実な姿勢が目立つのでしょうか。今では若者たちを中心に「かっこいい」マークとなっています。 |
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進化するデザイン
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| 牛乳屋さんのために作ったかばんを買い物用などに使うと言って買っていくお客さんが多く、そんな方の意見を聞いて改良をします。側面の補強用の布をステッチにして、さらにポケットにしました。 |
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| さらに、電車に乗ったときなどに底が丸だとかさばる・・などの声を聞き、底を丸ではなく楕円形にして、内ポケットも作りました。 |
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丈も深くして、より多くの物が入るように、また中が見えないように口に紐をつけて結べるようにしました。
このかばんは今では一澤帆布の定番商品になっています。 |
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牛乳袋からカジュアルなバッグへ。 でも進化する過程のバッグもそれぞれなくなるわけではありません。
今でも牛乳用のバッグを買いに来る牛乳屋さんがいるのです。 それぞれに需要があって機能的なデザインです。
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| 思い
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僕のかばん
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信三郎さんのお父さんが小学校6年生のときに書かれた文章です。
この文章は一澤帆布の姿勢そのもの。
原点がここにあります。 |
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僕のかばん 一澤信夫
僕のかばんは、づいぶん古いかばんだ。このかばんは、級の中でも先づ一ばん古い歴史のあるかばんであらう。このかばんは僕の入學する時に、父が夜おそくまでかゝつて一生懸命に作くつて下さつたものであつて、僕は一年生の昔から、六年生になつた今日まで、かたにかけて毎日元氣よく
學校へ來た。このかばんは僕にとつては決して忘れることのできない、一番の親友に今ではなつてゐる。
僕はこの一番の親友であるかばんを、或時はなげ、 或時はひきづつたり、ずい分らんぼうなことをしてきた。ある時などはこのかばんを學校へわすれてかへつたやうなことさへあつた。けれどもかばんはいつも僕に忠實につかへてゐてくれた。今は黒色が大分はげて白くなりかけてゐる。そうして今ではみすぼらしい姿をほかの立派なかばんにさらしていゐる。けれどもこの僕のかばんはいつも輝かしい六年間の歴史を物語つてゐるのだ。
僕はこのかばんに對して感謝しなければならない。このかばんは毎日學校へ僕をみちびいてくれた。遅刻した時も、先生にしかられてしほれてかへる時も、このかばんはいつも一しよで僕をはげましたりなぐさめたりしてくれた。僕は中等學校へ入學しても、このかばんで通すつもりである。僕が出世して立派な人になつてもこのかばんだけは決してはなさない。僕の一ばんの寶物として、記念として、いつまでも保存するつもりである。 |
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| 信三郎さんも子どもの頃、この作文を書いたお父さんに、帆布で野球のベースを作ってもらったり、プールを作ってもらったりしたということです。
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修理する
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何十年も前のものも修理のために持ち込まれます。修理は新しいものを作るより、手間がかかりますが、どれも丁寧に補修され、また使われます。
20年、30年と使われてきた生地は、柔らかくなり、風格も感じられます。 使いつづけてきた人の人生そのものが、ここには詰まっているようです。
「お客さんの要望を取り入れながら色数や種類が増えていきますが、、もとの形の商品はそのまま残ります。
その商品が製造中止になることはないんです。ですから何十年も使われて修理に返ってきても、材料と職人はいるわけです。」
「補修して使う」・・・このあたりまえの事を今の日本は忘れているような気がします。
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老若男女
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観光客や若者でいっぱいの店内。でも、昔からのお客さんもいます。相変わらず職人さんの道具袋や氷を運ぶ袋も作ります。
一澤さんの奥さん、恵美さんにも思いを伺いました。
「先日、15年前にニューヨークタイムスに載った記事を握りしめて来てくださったスタンフォード大学のドクターがいらっしゃったんです。15年間もうちに来たいなと思い続けてくださっていたんだと思うと本当に感激しました。」
「うちの袋は基本的に道具袋ですから、今までの職人さんも一般の方も自分達の個性で持っていただけるのが、うちのかばんの良いところだと思っています。
でも、最近は若いお客さんが多くなって、私たちのような年齢の方がお店に入りにくいんじゃないかなとも思います。今までのようにいろんな年代の老若男女の方に来ていただけるような店であり続けたいと思います。」
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顔の見える商い
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一澤帆布のカタログには、写真が一枚もありません。昔懐かしい質素なわら半紙のような紙に丁寧なイラストが描かれ、それに生地見本がついています。300円でこのカタログは送ってもらえます。
信三郎さんは言われます。
「うちとこは、世の中から何周も遅れて、たまたま頭出してるようなところがありますが、やりかたは昔から本当に変わっていません。カタログも昔のままです。
昔から、下請けや関連会社もなく、100%自分のところで製品を作り、お客さんと対面で物を売る・・・製造直売をずっとやってます。卸もしないし、新作発表しんならんこともないです。」
「目の届く範囲の仕事がしたいんです。
本来、物を売るというのは流通を通さず、製造する者が直接お客さんの要望を聞いて、それを製品に生かすことが一番ええと思てます。そうすることで、使い勝手の良い、お客さんの好むものになっていくんだと思います。」
「うちの商品はできるだけ店頭まで来ていただいて、実際に使い勝手や風合い、色を見ていただいた上で買うていただくのが一番ええと思てますで、ですからカタログはこの形でええと思てます。」
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そこそこ
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「京都には東京と違って、ゆったりと時間が流れています。
それに1000年の都と言われているだけあって、洗練されたものを見ながら物作りが出来るという、恵まれた環境にあります。ですから、そこそこのものができるんだと思うんです。
大量生産品ではなく、また芸術家が作るような稀少品でもない、値段と実体がともなっている・・・そんなものが、そこそこのものだと思てます。
そこそこの規模で、そこそこの商い。そこから生まれる、そこそこのもの・・・そんなものが作れればいいと思てます。」
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