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「水の恩はかえせない」 このことばは、少し前の人たちの普通の思いであった。一杓の水も使い込まれていた。水は大切に使われていたのである。このなごりはお茶事の席入りの水、神前の手水の作法に遺(のこ)されている。 水は大地と空気に肌ふれ合いながら巡って行く。捨て去る水にも心が行きとどいていたはずである。ドブ川を作ることは水に対する礼にかなわないのだから、捨てる水への心づかいも、水に対する返礼の態度の表れの一つである。水の本性は塩化ビニール管を通ってやって来て、またビニール管を通過し下水となる。水の回路からは露出しては来ない。 夏の朝露にしっとり湿った草々の香りや、また凛凛(りんりん)とした冬の朝の道で霜が、我々に見せてくれる姿こそ、水の地上での形の始まりある。 この国の春夏秋冬の気の配り具合は、霞から風花にまで連らなる水の変化(へんげ)として私たちを楽しませてくれる。極みにあるものは冬の雪であり次に来る冬と夏のせめぎあい、あるいは陰から陽へのスイッチ、梅雨ではないか。 これら陰陽の水の変容は、この国の文明を具現している稲作の基となるものである。 これら水の相の異(ちが)いは、物理によればただ、温度の差のしかけにすぎない。五度の差があれば露が現れる。 いつか道路工事を見ていて掘返された土があまりにも湿っているのにびっくりしたことがあった。この国の湿度は干天のアスファルトでさえ地中に合わさって水気を生じさせているのだ。あのとき私は湿度の高いこの国の夏さえありがたいと感じたことだった。 山の中の一本の木へ、レンズをズーム・アップしてみよう。木の葉の一しずくの露が地に吸われ、もう一葉のしずくが川に流れ、地に吸われたしずくは根に吸われ、地中を伝って行く。ある場所では、地上に帰って泉となって涌く。地上に涌く水の発見は、人工の泉である井戸の開発へと進んで行った。水の少ない砂漠の人々は砂で物を洗うという。砂漠の砂の模様に海の定着を見ることはありませんか?私は海と砂漠を同じイメージとして見るときがある。水を洗う水、これが土ではないだろうかと思う。土中に深く落ちて行く水が土砂に洗われて地下水となるのだ。 これをフィルターと一言で済ますのが今の文明である。洗うとは消毒といった浅い文明ではなくて、本当の「浄化」である。 この地下の水を汲み上げて味わうことは、まさに地上の味を味わうことなのだ。 美味しいという形容は、当然五感を越えて宇宙へのほめことばにならなければならない。 名水があって、人が賞(め)でることは、その水の出る場所で人々が楽しんでいる姿がうれしいのである。名水は「名物」作り、人々は地上を楽しむ。 水が味気ないものに変わった第一は、人が山を見すてたときにはじまる。少し前の人々にとっては山は海と同じく幸せの蔵であった。日本の山は大切に清められ、育てられた人工物であった。水は山々の木によって生かされていたのだ。山が荒れたとき水は死に、都市は空に舞う。テクノポリスに於ては水の本質を知る人こそが王とならなければ、そこは死んだ都になるほかはない。 ランドサットから地上をながめたときこの国ほど緑のある土地はこの地球にない。この陽の国の人々の態度こそこの地上の指針とならなければならない。これは宿命であり使命ではないだろうか。点に絞れば山背の地、京都に住を定めた古代の人の直感こそ、水に対する思いでなくて何であろう。我々の体は大方水によって成り立っている。一人一人は湖を持っているのでありこの湖は川に泉に連らなっているのである。人はこのメカニックの中の一つの要素となりながら宇宙までも連らなっている。水に下水も上水もあるはずも無く、水なのだ。水を味わい、水を知ることは生きる証しの始まりとなるべきだ。 文:御州浜司 |
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生水を飲んではいけないと、子どものころよく注意されたものだ。旅行をする人には、水が変わるから気をおつけなさい、といって送り出した。この生水という言葉の概念の中に、井戸水は入っていなかった。なぜなら、そのころの井戸はみな、安心して飲み水に使えるように、いつも念入りに管理されていたからだ。もちろん上水道はできていたから、旅行先で水が変わって体調を損ねるということもなかったはずだ。けれども人びとは、まずそのことを口にした。水に対する関心の深さが、今とはまるでちがっていたのである。 カランをひねれば水が出るということがあたりまえになって、水への関心が薄れていった。そして関心が薄れると同時に、水を汚す行為を気にしなくなったように思う。白川のほとりを歩いたり、紙屋川沿いをさかのぼってみたりすると、あまりの投棄物の多さや汚れのひどさに、心が重く沈んでいくのを覚える。これらの川を流れる水は、地下に滲透していって「京の水」となり、さらには下って大阪の水となる。それが解っていても、もう自分たちの生活の水とは関係がない、と割り切って考えられているのだろうか。 |