京生麩の老舗「麸嘉」は、
昭和56年から3年間、京都の水の大切さを訴えるため、
京都新聞に全面広告を出しました。

そのときの文章全文をここにご紹介いたします。
 
京の水ー1
 歴史を流れ 暮らしを流れ そして明日へ流れゆくもの・・・・
京都新聞 昭和56年5月26日 掲載
 明治の京都人

琵琶湖から疎水を引く計画が発表されたとき、讃否の両論がわきおこった。
反対の声の中に、滋賀県の水を京都盆地へ流しこんだりしたら、鴨川の水が変質して京美人が台なしになる、という珍論があった。京女は鴨川の水で洗うから色白なのだと、むかしからい
われている 。年のいった人たちは、それが気がかりだったのである。
笑い話だと言えばそれまでだが、この人たちは何も滋賀県の水が悪いといっているわけではない。他国の水がはいると京の水の特性が失われはしないかと、真剣に心配をしたのだ。

それほどに明治の京都人は、京の水に誇りをもっていた。 水というものを身近に考えていたし、京の水をそのままの清らかさで、次の代へ渡すことが自分たちの務めだと思っていたのである。

 水が育てた京文化

尾形光琳の屋敷は、上御霊神社の近くにあった。当時の京の町の東北のはずれだったそのあたりでは、鴨川から引いた二筋の小流が、田畑の中を流れ下ってきて神社の前で合流していた。
j光琳の屋敷はその野川のひとつのほとりにあったようだ。大作「紅梅白梅図屏風」に描かれている美しい流水は、光琳が毎日眺めていた早春の京の水が光り走る姿なのである。
また、観世屋敷の井戸の水面にに現れるささ波は観世水と呼ばれて、光琳の水と共に、染織・陶磁器・蒔絵・その他工芸品や菓子などの意匠の上で、永遠のテーマとしてくりかえし使われている
近世の初め小川頭に、狩野元信・永楽や千少庵・本阿弥悦らが住んだのも、ここを流れていた小川の水の清らかさに魅かれたのにちがいない。
祇園祭の神輿も鴨川の水で洗われ、山鉾の町の人たちは、それぞれの町のきまった井戸の水で心身を浄めるのが習わしだった。
 茶道を育て、銘酒を造り、糸を染め、友禅を洗い、千二百年間京の水は流れつづけてきた。
 京都の文化は、水が育てた文化だといってよいだろう。


 京の味と水

麩屋町という通りの名の起こりは、織田信長の時代の天正の初め頃、この通りの二条から南に、麩を作る人たちが集まって住んだからだといわれている。
 今は地下に消えてしまったが、上御霊から御所の中を抜けて流れる中川が、すぐそばの寺町通りを流れていたし、近くには名水飛鳥井が湧いていたから、水が良かったのにちがいない。その麩屋町の二条界隈に、現在湯葉の老舗が残るだけで、麩を作る家は一軒もなくなっている。
酒は言うまでもないが、水質の良否が味を左右する食品はおびただしい数にのぼる。
豆腐・湯葉・蒲鉾・味噌・醤油・酢など、味が左右されるだけではなくて、そもそも水が豊かに湧く場所でないと製造ができなかった。
 生麩もまた、そうした食品のひとつである。麩作りははじめからしまいまで、水を使う。
小麦粉を練っては洗い、練っては洗いして澱粉質をすっかり洗い流し、グルテン、つまり麩質を分離させるのである。二時間あまり練りと洗いとをつづけて、洗っている水がさらさらになると、目方にしてもとの粉の三分の一ほどの麩質が取れる。この練りと洗いとが、麩作りの生命である。むかしは体力と根気との要る辛い仕事だったようだが、この作業を通して麩作りの職人たちは生麩の中に京の水を練りこんでいくのである。
西洞院通には明治二十八年に地下へ姿を消した西洞院川が流れていた。この川筋には常磐井・滋野井・柳の水・菅公誕生水などの名水が湧き、下京のほうでは室町時代からすでに「柳の酒」が造られている。江戸時代の後期には椹木町通の西洞院から堀川にかけて「上の店」と呼ばれれた生鮮食品の市場が生まれ、大正の末頃まで京都最大の市場として賑わっていた。錦小路に市場が発達したのも同じ理由によるのだが清涼な水の湧く所でないと、生鮮食品を貯蔵することが難しかったのである。

 井戸の見直し

京都の地下には文化を育て食品を作ってきた水が、今も豊かに流れている。ただ人が関心を寄せないだけのことなのだ。百五十万という大都市でありながら、良質の水に恵まれているという点では、京都は珍しい町なのである。
 その京都に住んで京都市民のうちの何パーセントの人が、井戸水の味を知っているのだろうか。水の味は言葉では表現できないほどに微妙なものだが、良い井戸水を飲んでみると、化学処理された水道の水との違いは、ひと口含んだだけで誰にでもわかる。びっくりするほどうまいのである。
 そうした水を湧かせる井戸がかつて京都にはたくさんあった。現在でも二万七千ヶ所の井戸が生きているという。


 大都市の地下水には、常に汚染の問題がつきまとう。汚染されはじめたのは、鴨川といわず京都の川々がひどく汚れた時期とほぼ一致している。けれども今、その鴨川には魚の影が走り、冬になるとユリカモメの群れが訪れる。井戸も見直されて良いときを迎えているのではないだろうか。
 他国の水を引き入れるということだけで、明治の京都の人は、京の水の特性が失われることを心配した。その考え方はともかくとして、水に寄せる関心の深さには、学ぶべきものがある。

文:駒敏郎

京の水−2
水は天からの授かりもの 『水を粗末にしたらばちが当たります』
京都新聞 昭和57年9月28日 掲載
 

「水の恩はかえせない」 このことばは、少し前の人たちの普通の思いであった。一杓の水も使い込まれていた。水は大切に使われていたのである。このなごりはお茶事の席入りの水、神前の手水の作法に遺(のこ)されている。
水は大地と空気に肌ふれ合いながら巡って行く。捨て去る水にも心が行きとどいていたはずである。ドブ川を作ることは水に対する礼にかなわないのだから、捨てる水への心づかいも、水に対する返礼の態度の表れの一つである。水の本性は塩化ビニール管を通ってやって来て、またビニール管を通過し下水となる。水の回路からは露出しては来ない。
夏の朝露にしっとり湿った草々の香りや、また凛凛(りんりん)とした冬の朝の道で霜が、我々に見せてくれる姿こそ、水の地上での形の始まりある。
この国の春夏秋冬の気の配り具合は、霞から風花にまで連らなる水の変化(へんげ)として私たちを楽しませてくれる。極みにあるものは冬の雪であり次に来る冬と夏のせめぎあい、あるいは陰から陽へのスイッチ
梅雨ではないか。
これら陰陽の水の変容は、この国の文明を具現している稲作の基となるものである。
これら水の相の異(ちが)いは、物理によればただ、温度の差のしかけにすぎない。五度の差があれば露が現れる。
いつか道路工事を見ていて掘返された土があまりにも湿っているのにびっくりしたことがあった。この国の湿度は干天のアスファルトでさえ地中に合わさって水気を生じさせているのだ。あのとき私は湿度の高いこの国の夏さえありがたいと感じたことだった。

山の中の一本の木へ、レンズをズーム・アップしてみよう。木の葉の一しずくの露が地に吸われ、もう一葉のしずくが川に流れ、地に吸われたしずくは根に吸われ、地中を伝って行く。ある場所では、地上に帰って泉となって涌く。地上に涌く水の発見は、人工の泉である井戸の開発へと進んで行った。
水の少ない砂漠の人々は砂で物を洗うという。砂漠の砂の模様に海の定着を見ることはありませんか?私は海と砂漠を同じイメージとして見るときがある。水を洗う水、これが土ではないだろうかと思う。土中に深く落ちて行く水が土砂に洗われて地下水となるのだ。
これをフィルターと一言で済ますのが今の文明である。洗うとは消毒といった浅い文明ではなくて、本当の「浄化」である。
この地下の水を汲み上げて味わうことは、まさに地上の味を味わうことなのだ。
美味しいという形容は、当然五感を越えて宇宙へのほめことばにならなければならない。
名水があって、人が賞(め)でることは、その水の出る場所で人々が楽しんでいる姿がうれしいのである。名水は「名物」作り、人々は地上を楽しむ。

水が味気ないものに変わった第一は、人が山を見すてたときにはじまる。少し前の人々にとっては山は海と同じく幸せの蔵であった。日本の山は大切に清められ、育てられた人工物であった。水は山々の木によって生かされていたのだ。山が荒れたとき水は死に、都市は空に舞う。テクノポリスに於ては水の本質を知る人こそが王とならなければ、そこは死んだ都になるほかはない。

ランドサットから地上をながめたときこの国ほど緑のある土地はこの地球にない。この陽の国の人々の態度こそこの地上の指針とならなければならない。これは宿命であり使命ではないだろうか。点に絞れば山背の地、京都に住を定めた古代の人の直感こそ、水に対する思いでなくて何であろう。我々の体は大方水によって成り立っている。一人一人は湖を持っているのでありこの湖は川に泉に連らなっているのである。人はこのメカニックの中の一つの要素となりながら宇宙までも連らなっている。水に下水も上水もあるはずも無く、水なのだ。水を味わい、水を知ることは生きる証しの始まりとなるべきだ。

文:御州浜司


京の水ー3
 
京都新聞 昭和58年10月18日 掲載
 

生水を飲んではいけないと、子どものころよく注意されたものだ。旅行をする人には、水が変わるから気をおつけなさい、といって送り出した。この生水という言葉の概念の中に、井戸水は入っていなかった。なぜなら、そのころの井戸はみな、安心して飲み水に使えるように、いつも念入りに管理されていたからだ。もちろん上水道はできていたから、旅行先で水が変わって体調を損ねるということもなかったはずだ。けれども人びとは、まずそのことを口にした。水に対する関心の深さが、今とはまるでちがっていたのである。

カランをひねれば水が出るということがあたりまえになって、水への関心が薄れていった。そして関心が薄れると同時に、水を汚す行為を気にしなくなったように思う。白川のほとりを歩いたり、紙屋川沿いをさかのぼってみたりすると、あまりの投棄物の多さや汚れのひどさに、心が重く沈んでいくのを覚える。これらの川を流れる水は、地下に滲透していって「京の水」となり、さらには下って大阪の水となる。それが解っていても、もう自分たちの生活の水とは関係がない、と割り切って考えられているのだろうか。

水にも四季のうつろいがある。毎日が水ではじまり水で終わる家職に従っている人たちは、水
の締まりぐあいで、深まってゆく秋を知り、訪れそめた春を感じる。
生麩・生湯葉・豆腐その他、水と切っても切れないつながりをもつ食品類の製造は、そうした水の感触に原料をどう合わせ、どう加工するかを考えながら行われてきた。秋の水では秋の水にふさわしい生麩を作り、春の水では春の水に合った生湯葉を作る。それが家職に生きる人たちの誇りであり、自負でもあった。
言ってみれば自然のリズムを、水を通して食品に練りこむから、それが味となって人の舌を喜ばせたのだ。水が自然のリズムを伝えなくなると、こうした食品類は微妙な味の調和を失ってしまうことになる。

他県から来て京都で生活をはじめた人たちが、京の水はくさくてまずいという。たしかに例年、季節の変わり目に水がひどくくさくなって、壁土を溶かしたような臭いがする。
あれは実は京の水ではなくて、琵琶湖の水なのだと説明をして、それでは本当にうまい京の水は、どうしたら飲めるのかと言われると、まず普通に生活をしている限り、ほとんどの人は飲むことができない。近畿の水がめの水がくさくなければ、京都人はみなくさい水を飲まねばならないのが現状である。水の素性をいくらただしても、何の益にもならない。私たちはもっと真剣になって、琵琶湖を守ろうとしている滋賀県の人たちと協力すべきで、同時に日常水を使うときに、下流の大阪府の人たちのことも考えなければなるまい。水の問題は水系として捉えなければ意味をなさないのだ。

この三年間で、水の問題は論じ尽くされた観がある。けれども、議論するだけではいっこうにきれいにならないのが、水の厄介なところである。

文:駒敏郎