仕事柄というべきであろうか。人と出会う機会が極めて多い。 それ故にお手みやげ、差し入れ等の品々に頭を悩ますこともままある。

 とはいえ、そんな事はどうでも良いことだ―といわれる方もおられることだろう。けれども同じお金で遣い物に心を託すのであれば、やはり自信をもってお届け出来るものを選びたいと思う。お手みやげひとつとはいえ、そこには自分のセンスやテイストがあらわれる、いわば自分の分身のようなものであるから、やはり適当では済まされない。


 ぼくの品選びのポイントは、気がきいて「おいしい!」ということだ。そして「おいしい!」という基準はもちろん自分自身の舌にあることは言うまでもない。と、ここまで書くと、ぼくの事を随分とこだわりをもったグルメに違いない!と想像されることであろう・・・・。
 ところが実は、こだわり派でもグルメ派でもない。強いて言うならば、自分がうれしかった味を身近な人にも味わってもらいたい!という少しワガママなサービス精神の持ち主というべきかもしれない。
 冷静に我が身を振り返ってみると、こうした性格は天性であると同時に、ぼくの生まれ育った環境を抜きに語れないだろう。


 ぼくの生まれ育った家は誠に人の出入りの多い家である。出入りをされる方々は来客あり、お弟子さんありと様々だが、そのほとんどがお手みやげを持参される。それも家元に食べていただきたいという思いを重ねに重ねた吟味であろうから、おいしくない訳がない。お陰で居ながらにして全国の銘品銘菓を口にすることが出来た。そんな訳で少年時代には肥満通知をもらって来る程に成長を遂げたのである。
 さすがにあきれたのか、母からは「これ以上太ったら両国ネ!」と冷やかされたこともしばしばであった。
 誠に有難い境遇とはいえ、お手みやげや差し入れは、いただくばかりでは済まされない―というのもまた世の常というべきであろう。
 だからよく祖母や母が先方の状況を考えながら「アレが良いか?コレが良いか?」と品定めに頭を悩ませていた姿が記憶に残っている。おそらく、そんな記憶が、「あげたがり」のぼくの性格をつくりあげたに違いない。
 さて、そろそろそんな太っちょの少年が出会った最高のお手みやげについて書こうと思う。
 
味の手帖 2002年4月掲載

 二月のある朝、美しい菓子が届いた。
 いつもの習慣で、菓銘をたずねてみたところ、銘は特に無く、ただ“梅”と聞いた―という。
 大抵の京菓子には詩情あふれる銘がついているが、“梅”というのみの響きはいかにも物足らず、また、少し意外であった。
 けれどもTという菓子屋から届くものにはこれまでも無銘のものが無いわけではなかった。
 銘よりも菓子そのものを大切にすることもまた、菓子屋の気風である。
 そして、そのことと一人で店を営むTの主人の風貌とが重なり、何となくほほえましい気もした。
 しかしながらやはり無銘菓というのはうれしくない。梅であるならば「寒紅梅(かんこうばい)」や「未開紅(みかいこう)」といった季語にも繋がる美しい花の名を選ぶのが常であろう。
 その朝の菓子も鮮やかな紅の上に白い粉が品よくふられており、その様はさしづめ「寒中梅」と呼ぶにふさわしかった。だからTの主人が何故この美しい菓子に銘を与えなかったのか・・・・しばらくの間気になっていた。
 自問自答した結論をここで述べてしまうならば、Tの主人は銘をつけることを見る人にゆだねたかった―ということであろうか・・・・。
 いずれにしても銘が無いことは、見る人に何の束縛もなく、むしろそのことで見る人の想像力や創造力を喚起させる状況が与えられた―といえよう。そう考えてみると、Tの主人の選択はなかなか意味深いことなのである。


 日本文化、とりわけ茶の湯の世界にとって、こうした想像力ほど大切なことはない。
 たとえば茶人は、茶碗の肌あいや釉薬の流れる具合を見てそれを何かにたとえたくなる。茶碗に限らず竹の切れ端にすぎない茶杓にも、その時々の心情を託したり何か特別な風景を思い浮かべるのである。
 いわばこのたくましい想像力によって与えられる「命」こそが「見立て」と呼ばれることなのだ。
 だから茶人たちは自然のひとかけらに自らの「命」を分け与える意味で「銘」を授けるのである。そしてその「見立て」が共感を生み、また別の思いを導き出すことを期待するのだ。
 このような想像力と、それが伴う共感力によってつくられる連想ゲームこそが日本的なカラクリの根幹なのである。
 とはいえ、それは日本だけの特権でもなさそうだ。唐突なようだが、洋菓子の類にも「見立て」のような連想ゲームは存在する。古典的な菓子で言うならば、モンブランはその形からいってもあの有名な山を想起させるし、ミルフィーユもカタチと命名が幸せに出会った良き事例なのである。



 とりわけ種類の豊富な洋菓子の中にあって、味わいの良さ、命名の素晴らしさそして何がしかの想像力をかきたてる逸品がある。
 それは小川軒のレイズンウイッチである。
 これはもう古典中の古典とも言うべきで、風格と存在感からすればまさに王様級だ。クッキーのような生地の中に何ともいえぬ味わいのレイズンがバタークリームに包まれているのだが、しつこさ―というものが感じられない。
 おそらくは上質のものだけが持つべき力とそれを伝える 職人たちの技と魂がそのグレードを維持させているのだろう。近頃は他社製品でも似たようなものがないわけではないが、およそライバルといえるレベルに達していない。本物の前では所詮コピーはコピーでしかない―と言うべきであろう。
 それ故また、レイズンウイッチのすごさは、この形態の菓子をレイズンウイッチと呼ばせてしまうところにある。つまりレイズンウイッチは菓子のジャンルであると同時に菓子の名前でもあるのだ。
 さて、想像力をかきたてる―という点においてこの命名はまた、何やら不思議な魅力を放っている。レイズンは理解できるが・・・・ウイッチとは果たして何であるか・・・・・。
 もちろんてっとり早いイメージからいえば、サンドウイッチから転用したと考えるのが順当だ。けれども字は違っても魔力・魔女をあらわすウイッチを想起させるのは何故だろう。それはこの菓子がそれだけ何拍子も揃った素晴らしさを持っているためであろうか・・・・。だから魔法にかけられた菓子・・・・・魅了するレイズンという表現も何だか捨て難いのである。
 そして、郷愁をそそるという点において加筆しておきたいことがある。それは、つい最近までこの菓子の製造者名が“巴里”という社名であったことだ。
 “巴里”何という懐かしい響きをもった表記であろうか・・・・・。
 決して古い人間ではないが、そこにはかつての日本の詩人や文化人が憧れの眼を持って眺めた遠い国のイメージがある。どうやらぼくはこの菓子がかつての巴里の町や巴里祭で食されていたかの印象を持ってしまっているに違いない。
 さて・・・・想像力をかきたてすぎるという意味において、小川軒は何とも罪つくりな名品を産み出してしまったものだ。
 
味の手帖 2003年2月掲載