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俳句を楽しんでいる関係で季語辞典は、手離せないもののひとつだ。
僕が愛用しているのは稲畑汀子先生編による『ホトトギス季寄せ』である。携帯するのに便利なサイズというのが、うれしい。
六月―なんだか中途半端な印象の月だな・・・・と思いながらこの季寄せを開いてみる。
すると―「野山は緑におおわれ風物はことごとく夏の姿となる。早苗が植えられ、梅雨が来る」ときわめて簡潔な印象が述べられている。
とはいえ一般的な印象を思うとき、初夏の清々しさはもちろん五月にある。そのため六月は最後の二行に書かれた梅雨に代表されており、同じ夏とはいえどいかにも分が悪い。
だいたい梅雨―というだけで不快指数があがりウットウシイではないか・・・。近頃でこそ、海外からの影響でジューンブライド等と言われだしたものの―風土から来る印象だけはなかなかぬぐいがたい。
それに、今月はどうも愚痴っぽくていけない―よもやこれも梅雨空のせいではあるまいか―。
悪口三昧を言ったけれど実はぼくは六月の生まれだ。ほとんど好感度のない季節とはいえ―ひとつだけ良いこともあった。それは生まれた二十五日が天神さんの日という点にある。
梅花祭の行われる二月二十五日は菅原道真公の命日ということでよく知られているが、六月二十五日が道真公のお誕生日であることはあまり知られていない。
誠に有難く光栄なことなのだが、何せ道真公は学問の神様なのである。それゆえ、学生時代には信仰心厚き祖母からそのことを指摘され・・・・・そのたびにひやひやしたものだった。
さて、天神様といえば無条件に登場するものが梅であろう。けれど「東風吹かば―」の時期はすでに去り、「青梅のしり美しくそろひけり」と室生犀星が美しくたたえた時候となる。実梅は雨の多いこの時期にあって誠に清々しい。
実梅と同様にまた梅雨空の下でこそ生き生きと見えてくるものが紫陽花の花だ。
晴れ間にはほとんど元気がないが、雨に洗われると淡い色合いが妖しく、微妙な表情を見せてくれる。
長広舌が過ぎたようだが―今月のお手みやげのテーマは梅と紫陽花ということにしよう。
それがどんなお手みやげに変身するのか?いささか不審に思われることだろうが、ぼくのイメージをカタチにしてくれるものがちゃんと存在している。それは金平糖。
なんだ金平糖か!と思われてはいけない―あの淡い色合いを皿の上にとりまぜてみると、雨に咲く紫陽花のようにもみえ心楽しい。
実は京都にただ一軒金平糖の専門店があるのをご存知だろうか?ぼくがはじめてこの店を知ったのは今から十年以上前のこと。その頃はまだ今のように「緑寿庵清水」とは名乗らず黙々と下請けの仕事をこなしていたように思う。そして仕事場にはまだ先代の主人の姿もあった。この人はほっそりとした、いかにも職人風の風貌だったが、手鍋ひとつで金平糖をつくる―という技の伝承者とも聞こえていた。
近頃は若い後継者が育ち、さまざまな商品開発を手がけており、金平糖の種類もおどろくほど増えた。また、パッケージにも力を入れてきたため、かなりブランド力がついてきている。ここの金平糖はまさに本物中の本物で、イラ粉といわれるもち米を細かく砕いたものを核に使う。
そしてこの核を釜でまわしながら蜜をかけては乾燥を繰り返すのである。
約二週間かけると美しい金平糖が出来あがるのだが、誠に体力と根気のいる仕事といえよう。
こうして作られた緑寿庵清水の金平糖は歯ざわりといい色といい優しく―文句のつけようがない。一般的に売られている金平糖はだいたいこんなに手間ひまをかけてはいない・・・・まして緑寿庵清水とは違う製法のところが多いようだ。
だから金平糖が、ガリガリと、ただ堅いものだと思っていたらそれは間違いで、堅すぎるものは、いわば氷砂糖と呼ぶべきである。
さて、この金平糖―後はどんな差し上げ方をすればよいのだろうか・・・・・
この時期であるから、やはりすっきりさわやかなイメージが好ましい。通常なら振り出しに入れるのも良いが、ここは季節柄ガラスの器にでも入れてもらおうか―それともボンボニエールの様なものでも可愛らしい。ちょっとオシャレな雰囲気にしたいときには、そんな風に仕上げたい。あるいはさりげなく数種類の袋詰めを籠盛りにしてもらうのも良いかもしれない。
ものを差し上げるとき、こうしてアレコレと考えるのもまた楽しみのひとときなのである。
ところで、金平糖と紫陽花の関係はなんとなくわかったが、梅はどこへ行ったのだ―とそろそろ指摘を受けそうだ。梅は・・・・・ちゃんと味付けのひとつに使っているのでどうかご心配なく!
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