文 伊住政和   写真 小林廉宜

第1回「肩の力を抜いて茶とつきあう」




 私の生家京都の裏千家には、その発祥となる小さな茶室がある。
今日庵と呼ばれるこの小さな茶室は、ほぼ、二畳敷の空間と思ってもらえれば良い。
今は、重要文化財に指定された為、ほとんど火を使うことが許されないこの庵に、
私は時々ひとりで座ってみたくなる。
  土壁に囲まれた薄暗い茶室の中はそれでも 障子越しに伝わってくる光が優しく 、
時折聞こえてくる木々のざわめきや鳥の声に心和む。
様々な仕事に追われる身の上にとって、ここは絶好の逃避場でありまた、オアシスでもある。
  私にとっての今日庵は、茶を点て、人と話をする場所ではなく、
ある意味で瞑想のひと時、リラクセーションの場なのだ。
  茶室は本来、都会人の癒しの場として生まれている。
だから、都会をはなれ、ひな びた隠れ里に庵をたてる隠遁者の営みではない。
それは、茶室がその昔、市中の隠あるいは市中の山居と呼ばれていたことであきらかである。
それも極めて日常に近い、 日常ととなりあわせた、非日常のスペースであった。
  都会人にストレスが多いことに今昔の違いはなく、
茶の湯は日常に近いところでそれを解き放ってくれる絶好の手段であった。
  しかし、茶の湯の場合、もてなしは自らのためだけにあるわけではない。
 
それを語る一文が『南方録』という本の冒頭にある。
 
「家はもらぬ程、食事は飢えぬほどにて足る事なり。これ仏の教、茶の本意なり。
水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶を点てて、仏にそなへ、人にもほどこし、吾ものむ。
花をたて香をたく。みなみな仏祖の行いのあとを学ぶなり。」

 
禅の教えが茶の根本を成していることが明快に述べられているが、
仏にも、人にも、自分にも通じるもてなしでなくてはならない。
ゆとりがなければこんな気持ちにはまずなれない。
  自分だけのことを考えがちで、自分だけの事で精一杯な現代人にとっては
少しばかり 耳の痛い話であるかもしれない。
我々はストレスのありかを探す前に、まず自らの心のありかたについて考えた方がいい。
心のせまさこそが自らを追いつめていく、そもそもの根源なのだから。
南方録の言葉を基にするなら、
茶の湯は粗末な空間、粗末なモノであっても豊かに生きることの出来る生活思想だと言える。
  今時は茶室も道具も高価になって茶の湯は縁遠い存在になったが、
本当の茶の湯は、 金やモノのある人はあるなりに、
ない人はないなりに楽しむことができる―という柔軟 なものだ。
 
それで想い出すのが、デザイナーの知人に招かれて別荘に遊びに行った時のことだ。
興が乗ったのか、突然茶会をしようという話がまとまった。
けれども困ったことに茶道具はなかった。
幸いに抹茶と茶筅はあったのでスプーンを茶杓に、ワインクーラーを水指に見立て、
夏だったから冷たい山の水でお茶を点ててみた。
  臨時の創作茶会は思わぬ好評を博したが、こんな風に、自分のひねった茶碗でもいい、
お気に入りのカフェオーレボウルでもいい、湯を沸かし茶を点てるだけでも、
それが楽しめれば立派な茶の湯の精神であるといえよう。
 
あなたも、自分のためにでも、人のためにでもいい、
一心不乱に茶を点ててみるひとときをもってみてはいかがだろう。
  間違いなくその瞬間こそ、無心であり、また空っぽの時間であるのだから……。
 
茶は心の渇きをも癒してくれるものだ。




(この原稿は、「日経ヘルス」より転載されたものです)

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