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第10回「一滴の茶のうまみを極める煎茶道の世界に心震える」
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文・伊住政和 写真・小林廉宜
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旅の道連れにと頂戴した弁当に、缶入りの玉露がついてきた。いつもならありがたく缶のフタを開けるのだが、今日はどうしても口にする気になれない。
それには少しばかり理由がある。というのも、あの豊潤なる一滴のうまみを知ってしまったからだ。
先日、縁あって小川流の煎茶を味わう機会を得た。
同じ京都に住まいをおきながら、実のところ煎茶を体験するのは初めてのことだった。
なぜ?といぶかしがられても不思議ではない。同じ茶の木から生まれたとはいえ、これまで、煎茶と抹茶はあまり仲の良い兄弟ではなかったのだ。
だからといって、人間同士が仲良くできないというわけではない。あくまでも、歩んできた系統の違い、と言えるかもしれない。
さてその日は、文人が書に疲れた時に気楽に楽しんだという「文人手前」と、即興での「玉露手前」を体験した。文人手前の味わいもなかなか深かったが、それは空前絶後ともいえる玉露手前のプロローグにすぎなかった。
玉露手前は、茶葉に含まれるタンニンなどの渋みを入れず、テアニンというたんぱく質のうまみだけを抽出するもので、まさに究極の味わい。
白い湯気がほうほうと吹き出る湯瓶を火からおろす。頃合いを見て、茶葉が入れられた急須の中へ、注意深く、繊細な糸のように湯を少しだけ注ぐ。
静かに細く湯を注ぐのは、茶の葉が火傷をする面積を少なくするためであり、また、温度の調節のためでもある。
葉が熱湯によって傷つくと、タンニンが出て渋くなるのだという。うまみを引き出すためとはいえ、茶と客へのやさしい心配りと言えよう。
湯はしばし急須の中で葉となじむのを待ち、配置された白い小さな磁器の茶碗の中へゆっくりと落とし込まれる。
大切に融合された一滴は、まさに緑の滴りとなり、それが「玉の露」と呼ばれるにふさわしいことを知る。
初めてこのもてなしを受ける客は、茶碗の中の茶の量のあまりの少なさに驚きを隠せない。けれども本当の驚きは、舌の上にその一滴を載せた瞬間に訪れる。
茶の芳香と甘味が口中に広がると、たとえようもない歓喜が全身を駆け巡るのだ。
この喜びを伝え尽くす筆力を私は持たない。その代わり、夏目漱石の『草枕』の一文に目を通されることをおすすめしたい。
「…普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液は殆んどない。只馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである」(新潮文庫『草枕』より)。
まさに、この一滴は砂漠の中で巡り合った、渇きを癒す一滴の水に匹敵する。そしてまた、心を癒す一滴でもある。私はいまだかつて、こんなささやかな豊かさに出合ったことがない。
一滴の味わいに命を懸ける茶人がいる。滴りの中に一境涯を見たり。私は恐ろしい体験を実はしたのかもしれない。
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(この原稿は、「日経ヘルス2000年7月号」より転載されたものです)
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