第11回「能の稽古に汗をして心のあかを洗い流す」
文・伊住政和 写真・小林廉宜
ある宴席で珍しい出来事があった。
酒も相当進み、宴たけなわの頃、一緒にいた青年会議所の理事長が、座興に小謡をご披露することになった。
やんやの喝采のなか、彼は静かに堂々と「熊野(ゆや)」の一節を謡いきった。
余勢をかって経済同友会の青年部の代表が「鶴亀」を、そして私も「鞍馬天狗」の一節をそれぞれに披露した。
文化の懐の深い京都ならではの光景と思われるかもしれないが、最近の宴席ではまずお目にかかることではなかった。
こうした場面で小謡の一つでも心得ておけば誠に心強く、また便利なものである。
カラオケもよいけれど、たまにはこうした伝統的な楽しみも悪いものではない。
すこぶる気分をよくしたところで、もう一度お謡の稽古をしてみたくなった。
実は謡の稽古については過去に二度挫折している。
初めは子供の頃。毎週土曜日になると先生がお稽古に来られていた。子供は謡の稽古より、仕舞(能の中のダイジェスト版になったところを軽く謡い軽く舞う)が稽古の中心となる。
言葉は分からないし、動きが静かで簡潔なため、とても退屈だったのを覚えている。そのうち学業専念を理由に兄と二人でお稽古を中断してしまった。
こうした習い事は大人になってこそ生きるものと、社会人になってから勇んで稽古を再開したけれど、今度は多忙のあまり、またまた挫折となった。
三度目の挑戦となる今回も、これまでお世話になった金剛流の種田道一先生に指導をお願いすることにした。
弟子がこう言うのも失礼だが、先生は謹厳実直を絵に描いたような方で、それゆえ稽古内容も真面目で分かりやすい。
たとえば、最初の謡の稽古においても、あまり細工をさせず、ただ堂々と大きな声を腹の底からから出せばよいといわれた。
というのも、素人はすぐ、玄人のふしまわしや発声をまねたがるからだ。だが、それは永年の稽古のなかでたどり着くところ。ものまねは所詮ものまねにすぎないという。
また、先生は素人が単調な稽古に飽きないよう、登場人物が暮らした時代や物語の背景の説明も丁寧だ。
そうしたことを知ることは、謡に思いを込めることにつながり、感受性を養ってもくれる。
さて、簡単に見える謡だけでも、このようになかなか骨が折れる。けれどもこれが仕舞となると、よりハードルが高いことを改めて知った。
というのも、仕舞は短く簡潔であるとはいえ、謡を覚えたうえに舞の所作を覚えなくてはならないからだ。
謡に気をとられると所作がおぼつかず、所作に気をとられると謡がおぼつかない。どちらもバランスよく行うためには、やはり稽古の回数を重ねるしかなさそうだ。
能を大成した世阿弥は『風姿花伝』の中で、次のように述べている。「稽古は強かれ、浄識(じょうしき)はなかれとなり」
自分勝手な慢心やわがままを捨て、稽古に専念せよと……。
確かに、自分なりの思い込みほど怖いものはない。手あかにまみれた自分をぬぐいさり、本来の素直な心を取り戻すことにこそ、稽古の意義はあるのだから……。
心のあかが少しぬぐえたせいだろうか。謡と仕舞の稽古の後には、五月の薫風のような軽やかさが残った。
(この原稿は、「日経ヘルス2000年8月号」より転載されたものです)
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