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第3回「ためらいなく一枝を生ける心」
その昔、「看山」という言葉を市井の老学者から教えられたことがあった。
その全文をご紹介すると次の通りだ。
「忙時山我ヲ看ル 閑時我山ヲ看ル」
何のことはない、言葉が少しひっくり返ったに過ぎないけれども、意味から言えば―心の持ちよう次第で大違い―ということになる。
この一文を我流に解釈するに、忙しくとも山を看る気持ち(ゆとり)を忘れない様に、ということになろうか。
都会に暮らす人達の日常は多忙を極めている。それゆえ、季節の移ろいや美しい存在に心を配っている余裕がない。
結局ストレスはたまる一方になってしまう……ということになろうか…。
そんな時、豊かなイメージを喚起してくれる自分だけの「山」という言葉や、山にかわるそんな対象を持っていれば安心できる。
私達はまず自らをもてなす、ということを忘れてはならない。
たとえば、茶の湯のもてなしは相手がいないと成立しないが、その前段階にあたる準備はあれこれと一人で楽しむことができる。
言うなればやすらぎの時間でもある。なかでも、もてなしの一つである花と接するときは格別の思いがある。
茶の湯の場合、使用する山野草や花木のことを茶花と呼ぶけれども、これらを生けるときは流儀花とは違い、ほとんど技巧をこらすことがない。
数種類を取り合わせることはあっても、その姿は「花は野にあるように」という教えの通りあくまでも自然体が好まれる。
小さな座敷なら一枝か二枝をを軽く生けるが、実のところこの軽く生ける―という事が案外むずかしい。
なぜならその一枝は選び抜かれた一枝でなければならないのだから。
それは大自然のほんのひとかけらに過ぎないけれどそれゆえに大自然をも凌駕する。
美しく切りとられた一枝は思いの外雄弁なのである。
だからこそ、人をもてなし、自らをもてなすための選択が終われば、次は心を集中させ、大胆に投げ入れなければならないのだ。
そこにためらいや雑念があってはいけない。
(この原稿は、「日経ヘルス」より転載されたものです)
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