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第4回「掌にのる庭にめぐり来る四季」
つい数年前まで、千家の庭には主がいた。
主の名前をシゲさんという。
シゲさんは何十年もの間、千家の庭をあづかり心の底から慈しんで来た人だ。
早朝であれ深夜であれ、シゲさんは、いつみても庭で仕事をしていた。
そして、いつも大切にピンセットを持ち歩いていたものだ。
シゲさんはこれをとりわけ思い入れのあった苔の手入れのために使っていた。
手をかけることが心をつくしていることと同じだとするならば誠に有易いことではない。
茶庭はこうした庭師達の一所懸命を受けていつも清楚に美しく保たれている。
さて、これまで茶庭と称してきた空間は実のところ露地と呼ばれている。
その訳は、茶に多くの影響を与えた禅にある。 禅の世界において"露"の字は"つゆ"と読まず、
「あらわれる」とか「あらわにする」という意味で使われている。
だからこそ、茶室につながる陰影の深い小径を進むことは、外界のわずらわしさから離れ、少しも覆い隠すところのない自分にたちもどるためのプロセスでもある。
一般呼称の路地を露地に改めたのはそうした理由によるのだ。
けれども、茶庭たる露地だけが瞑想や心の安心を得る為にあるのではない。
禅の庭もまた、そうした対象の代表格であろう。
古来より私達は楽しむ以上の役割を庭に与えてきたのではなかったか。
そんなことを考えながら、久しぶりに庭の手入れをすることにした。
正直言って庭の草むしりは好きではない。
生来無精な私は、縁側のひだまりで、ぽけーと庭をながめている方が好きだ。
しかしながら、根の強い雑草達とむきあい、黙々と作業を続けるひとときは確かに何もかも忘れる空っぽの時間ではある。
気がつくと汗が全身をぬらし、足や腰が少ししびれかかっていた。
そして、「あれは無心になれていい」という友人の言葉をふと私は、想い出していた。
果してあなたにとって今、庭はどんな存在であるのだろうか?
もちろん、ウサギ小屋と揶揄される日本の一般的住環境にあっては、庭をつくる楽しみも庭を愛でる楽しみも充分にある訳ではない。
けれども、今流行のイングリッシュガーデンや伝統的な盆栽は、庭遊びを手近にたのしむことが出来る立派な知恵なのである。
そして、両者に共通していることは"小さな庭"であり"可動式の庭"という点ではないだろうか?
また、いずれも大自然や好みの風景を小さな空間に託した"見立て"という手法をもちいる。
この「見立て」こそ日本人が大切にしてやまなかった美意識のひとつである。
ここに見立ての精神を活かしたあたらしい"庭"がある。それは野草盆栽をもう少し簡便にした室内でも楽しむことができる「置き庭」という小さな自然だ。
たとえ掌にのるような小さな自然といえどもそこには確かに四季がめぐり来る。
多忙の中であっても「置き庭」や「盆栽」といった小さな営みに目や耳をすましてみることで、きっとつかれきった五感はなぐさめられ、もてなされることだろう。
私達が捜し求めてやまない地上の楽園は、案外あなたの身近にひそんでいるのだ。
(この原稿は、「日経ヘルス」より転載されたものです)
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