第5回「“無心”で心を注ぐ土ひねりのススメ」

今、私は土と向き合っている。  
この土の塊が果して茶碗という相になるのだろうか……。  
先程から私に茶碗づくりのポイントをわかりやすく説明してくれているのは友人の吉村重生で、楽焼の窯を営む吉村楽入の三代目である。  
さて茶碗づくりにもいろいろあるが今日は楽焼の特徴である手びねりを体験させてもらっている。  
実のところ、この十年程忙しさにかまけて茶碗づくりは体験したことがなかったから、ほとんど素人状態、少し胸がドキドキする。  
はじめはひたすら吉村のまねをしながら土をかたちづくっていく、どんどん無口になり、頭も空っぽになっていくのがわかる。  
プロの陶芸家は最初につくりたいカタチを決めるのだという。
そして時折全体のカタチをチェックしながら部分を修正する。  
書けば、たった二行のことだけれども、これがなかなかむづかしい。
頭の中で意識し考えていることがとても手まで伝わらない。  
また、手に気持ちが集中してしまうと全体をチェックする脳が働かない。なかなかと難儀なことではある。  
ともあれ、茶碗の腰からおしりにかけてぽってりとした作品に仕上がった。  
なんだか自分の体形をみているようでふとおかしな気持ちになった。  
手びねりの醍醐味は、自分の手によって少しづつ時間をかけながら作り出すところにある。  
それゆえ、手のカタチあるいは手のあとが作品に生かされるとあっては、愛しさもひとしおというものだ。  
こうして茶碗をつくっていてふと頭に浮かんだのはよく父が口にするカタとカタチという話だった。  日本の伝統文化はカタから入るものが多い。長い年月をかけながらカタを学び、それに文字通り心血注ぐこと―つまりカタチのチは血であり、またその昔、魂や霊のことをチとよんだ心を注ぎ続けることなのでもある―ということだった。  
結局この日吉村の指導ヨロシク、調子に乗った私は五つの茶碗をつくってしまった。それらはすべて私の分身、あるいは私のカタチといえる。  
吉村の厚い友情に感謝しつつ今日得た骨法を二ツ三ツ……。  
茶碗づくりには心や性格がはっきり映しだされるということ、そして技術的には押すときには引く気持ちを、広げるときには縮める気持ちを忘れない方がいい。
つまり少し大胆に少し臆病にというところか(これはあるいは間違っているかもしれない)。そして最後にいえることは夢中になることはやはり無心になることなのかもしれない。

(この原稿は、「日経ヘルス」より転載されたものです)

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