第8回 「考えること」



 近頃の若者は…ものを考えなくなった―といわれて久しい。

 もっとも…近頃の若者というフレーズは古代の遺跡の中からでも発見できるので近頃生まれたことではない。

 確かに若者は、何かと忙しい。音楽を聞きながら歩き四六時中メールを打つ。
それ故何かを考えるという時間はあまり無さそうだ。
けれどもそれは若者だけの現象なのだろうか?

 実は考えない―ということは大人も含めた現代社会そのものが抱えている現象である。
情報過多の時代にあって本当に我々は何かをじっくりと考えているのだろうか?
そう考えると個人個人の情報編集能力を今一度問いなおさなければならない。
口耳四寸の学≠ニいう教えがある。これをかみくだいて言えば、「ちょい聞きの又聞きの知ったか振り」ということになる。
これは考える―ということではもちろん無い。

 考える―ということは情報を自分なりの言葉に置き換えるということでもある。
かく言うものの、ぼくも俳句をはじめてから言葉の重み、表現の大切さを一層痛感するようになった。
 なにせ十七文字という限られた枠組みの中に言葉や想いを込めるのである―これは考えずにはおられない。

 天啓の如くさらりと言葉が舞い降りることもあるが、それは稀で…大抵は一語一文字の取り合わせを推敲するのである。
その為はじめから句にならぬものも多いがそれでも決してあせってはいけない。
試行錯誤のうえにふとした出会いがあり句を成すことが多いからだ。

 だから考える―ということは情報を寝かしたり起こしたりするプロセスに他ならない。
情報を消費する時代は終った。
思いがあらわれるのを待つことこそ現代人が忘れてしまった楽しみ(考えること)ではないだろうか 。


新涼の身にそふ灯影ありにけり (久保田 万太郎

淡交タイムス 平成14年8月号掲載
 


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