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以前、箱根八里を歩いたとき、
御殿場から見た富士山が
非常に美しかったのを覚えています。
圧倒的な存在感の前では、
自分自身が「米粒」のように感じたものです。
富士山の姿は、見る方向によって違います。
歩いている間でも刻々とその姿を変化させます。
そこで思い出したのは、
葛飾北斎の「冨嶽三十六景」。
「冨嶽三十六景」に描かれた富士山は、
肉眼に映ったそのままではなく、
心象風景を描いているように思います。
富士の持つ圧倒的な存在感を
そのまま写し取ったかのような絵。
「山の前で人間はなんと小さな存在なのか」を表現しているかのようです。
これは、日本人の“山”というものに対する特殊な、
ある種“信仰”に近い感情の表れではないでしょうか。
日本人にとって、富士山は「美しく、高く、尊い」ものです。
富士山をよく歌に詠んだ山部赤人の歌に、
以下のようなものがあります。
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いつもの作務衣姿の山折先生。
とてもわかりやすく
お話をしてくださいました。
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【 長歌 】
天地の分かれし時ゆ神さびて
高く貴き駿河なる布士の高嶺を
天の原振り放け見れば
渡る日の影も隠ろひ照る月の光も見えず
白雲もい行きはばかり時じくぞ雪は降りける
語り継ぎ言ひ継ぎゆかむ不尽の高嶺は
【 反歌 】
田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にぞ
不尽の高嶺に雪は降りける
長歌に出てくる「神さびる」という言葉には、
「神のように振る舞う」との意味があります。
ずっと以前から、富士山は日本人にとって、
神のような存在であったことがわかります。
日本人は、心の遺伝子で自然を敬っているのです。
日本人が山に対して持つ考えは、
西洋人とは違います。
西洋では、山には悪魔が住んでいると考えています。
山に教会が多いのは山の悪魔を封じるためです。
しかし、日本では死者の魂は山を登っていくと考えます。
魂は山頂で神へと変化します。
日本では、山とは神のいる場所であり、
そこから「山は神だ」との考え方が
生まれたのかもしれません。
山岳信仰があるのは、
カナダの一部と日本にしかないものなのです。
以前イスラエルに行ったことがあります。
イエスの辿った道を歩いたのですが、周囲は砂漠です。
乾ききっていて、緑はほとんどありませんでした。
砂漠の人々にとって、唯一の心の支えは
「天上の彼方」しかなかったのです。
この厳しい環境が絶対的な神、
すなわち一神教を生む土壌になりました。
厳しい風土の元では、
宗教は「信ずる宗教」として信仰されるのです。
対して日本人は多神教です。
豊かな自然に囲まれているため、
一神教である必要がなかったのです。
美しいもの、尊いものがたくさんあり、
自然のそこかしこに神が存在すると考えています。
多神教的な宗教は「信じる宗教」というよりも「感じる宗教」なのです。
日本人は季節の移ろいに敏感に反応します。
万葉、古今の昔から、春夏秋冬の部立てもすでに定まっていたほどです。
この四季に対する感情は、「シーズン・レリジョン」(四季宗教)と言ってもいいほど。
ただし、四季折々の様子自体にはあまりこだわらず、
さりげなく言及し、なだらかなリズムで主題に入るのが大きなポイントになります。
このように、宗教には「風土」が多大な影響を与えているのです。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、
有名な一神教の聖地はどれもエルサレムに集まっています。
それぞれの信者は、自らの信じる宗教の聖地にだけ参って帰ります。
いわば「直線的」な動きであり「往復運動」です。
しかし、日本人にとって、巡礼行為は当たり前のことです。
エルサレムでもすべての宗教の聖地を巡りますし、
日本でも寺、神社の区別なく、さまざまな場所に参ります。
「放射線」状の動きであり、「円環運動」ですね。
日本人が神仏和合を取り入れ、「カミ」と「ホトケ」を相互に乗り入れて足を伸ばし、
巡礼するのは自然のいたるところに神々の存在を感じているからではないでしょうか。
自然と人間の関係が作り出した独特の宗教観が日本にはあります。
この感覚は日本人以外にはなかなか理解しがたいものですが、
外国の人でも日本に10年暮らせばその感覚がわかってくるともいいます。
それは、日本の豊かな自然や風土、四季に包まれて、日本的な感覚を体感したからなのでしょう。
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