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本堂に移動して、梶田さんのお話が始まりました。
テーマは「お盆」について。
仏教の「お盆」と、
日本人の行っている「お盆」とは違います。
仏教の「お盆」は、「佛説盂蘭盆経」によるものです。
「目連説話」という、
お釈迦様の弟子の一人、
目連(目連尊者)のことを書いたお経があります。
目連が、亡くなった自分の母親のことを
神通力を使って見てみると、
母親は地獄の餓鬼道落ちて苦しんでいたのです。
目連がなんとか助けようと試みましたが、
助けることができず、
急いでお釈迦様に相談しました。
お釈迦様は、
母親を救うには
「安居(あんご:インドの修行期間))」の
終わりに当たる7月15日に、
お坊さんたちが集まるから、
その人たちにごちそうして、
もてなし、いっしょに祈ってもらいなさい」と教えました。
目連がそのとおりにすると、
母親は餓鬼道から救われたそうです。
お釈迦様はさらに
「同じように、7月15日にごちそうを用意し、
仏や僧や大勢の人たちに供養すれば、
多くのご先祖が苦しみから救われ、
今生きている人も
幸福を得ることができるでしょう」と説きました。
仏教の「お盆」は、
一切衆生(生きとし生けるもの、主に人間)の成仏を祈るもので、
「慈悲の実践」なのです。
対して日本人の「お盆」は、
民俗学者・柳田國男さんの名付けた「先祖教」における行事です。
先祖教のお盆は、
先祖の魂を迎えて供養し、また戻っていただくというもの。
仏教的に考えると、死者は西方浄土の極楽に行き、
菩薩になって悟りを開いています。
ですからお盆のたびに呼び戻し、子孫が供養するという考え方はありません。
お盆の送り火や精霊流し、墓参の際の水、
弔い上げ、お正月の門松やお年玉などの行事や慣習も、
先祖教の考え方に基づいているといえます。
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わかりやすく
楽しくお話をしてくださる梶田さん。
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先祖教の特徴には、以下のものがあります。
| 1 |
死者の霊がふるさと近くに留まっていること |
| 2 |
この世とあの世の交流が自由であるということ |
| 3 |
臨終の際の子孫のための願いが、
死後には必ず達成されると考えられたこと |
| 4 |
死んでもなお、2度、3度と生まれ変わって、
しかも同じ事業を続けられると信じられたこと |
『千の風になって』という歌が流行していますが、
これも先祖教的宗教観が流行させているといえます。
亡くなった人が光や風になって、
近くの山や海などから見守ってくれる。
極楽に行くのではなく、
現世に留まっているという考え方です。
仏教では死者は西方浄土にいて、
輪廻もあります。
ですから、お盆に呼び出して供養することはありません。
先祖がわたしたちの近くに留まっているからこそ、
お盆に先祖供養する必要が生まれるのです。
「お盆に墓参りをしても、誰もいない」と言います。
墓や寺社など固定的に場所を決め、
そこへ先祖供養に出かけること自体が
先祖教的な考えに基づいています。
仏教的には、
いつでも念仏を唱えることで
死者と交流できると考えますので、
墓参りも重要視されません。
先祖教では、
人が亡くなることを「永眠した」といい、
「天国に行ってほしい」と考えます。
一方、仏教では「他界した」といい、
「極楽(西方浄土)に行ってほしい」と思います。
日本人の先祖供養や宗教行事は、
仏教的なものと認識している人が多いかもしれませんが、
実は先祖教の行事なのです
阿弥陀仏の教えを
心から信じることができれば、
お盆行事は必要ありません。
阿弥陀仏の名前を唱えることで、
成仏できるのですから。
しかし、なかなか信じ切ることができない人も多いでしょう。
先祖供養やお盆行事をするのがいけない訳ではありません。
「お盆行事を行うことに意味はあるのか」と自問自答することが大切です。
その上で、意味があると思えば続ければいいですし、
ないと思えば別の方法を考えればいいのだと思います。
仏教にも、自分の力で悟りを目指すもの 、
阿弥陀様の力にすがって悟りを開かせてもらうものなど、
さまざまな種類があります。
ですから、宗教はまずは自分の器を見極めることから始まります。
自分自身の器や気性を理解した上で、
自分に一番合う、心が穏やかになる宗教や方法を取り入れるのがいいと思います。
「お盆」には、自分を見つめ直すのがいいのではないでしょうか。
悟りを開くためには、自己愛やこだわりを捨てることが大切です。
自分を見つめ直し、自己愛に走りすぎていないかなど、 自身をかえりみる機会にしていただきたいと思います。
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