色の日本史

【平安時代の色】

平安時代は、日本の文化が開花した時代だといわれます。平安貴族たちは、奈良時代のように積極的に政治を取り組むことから離れて、宴を催したり、暮らしを楽しむ悠長な日々を送ることによって、かなの発明や日記や物語の創作など豊かな王朝文化を生み出しました。それは色彩においても、より繊細で洗練された感覚を形づくっていきました。

この時代の色は、いままでの布を染め上げた「染色」ばかりではなく、先染した糸を経と緯に織り込んで色をだす「織色」、さらには布の表と裏の色を重ねてあらわす「襲色」へと発展していきました。

 

【襲(かさね)】

王朝貴族たちは、十二単のように、何枚もの衣裳を重ね合わせた「襲の色目」によって装束を着ていました。その一枚一枚の衣裳の表と裏の色相に、自然の風景を映そうとして、袖口や裾のわずかな折り返しを縁のように縫いつけた表裏の布の「ふきかえし」の対比や光の透過がかもし出す微妙な色合いを楽しんだのです。
当時の正装とされる襲の衣裳は、一番上が唐衣(からぎぬ)と裳(もすそ)、その下に表着(うわぎ)、打衣(うちぎぬ)、そして重袿(かさねうちぎ)を五衣(いつぎぬ)。多いときは八衣(やつぎぬ)にして羽織り、最後に裏を付けない単(ひとえ)と袴(はかま)となります。
日常の場合は、下には袴に単を着けて、重袿を五枚重ねたものが基本となっていました。やや改まった場合は、その上に小袿(こうちぎ)という裄と丈が短い袷仕立てのものを着ます。
小袿姿

女房の正装

襲の色目とは、こうした上から下までの衣裳の色の組み合わせをいいます。重ねて着るときには、上に着る衣裳の仕立ては少しずつ小さくし、袖、衿、裾のところでわずかずつ重なるようにしたのです。 唐衣、小袿など上の方に着る衣裳では、その裏と表で色目を表現し、下に着て五つ以上を重ねるものは、全体の色を暈絢(うんげん)のようにして濃淡をあらわします。

襲の色目を見せる時に、袖口や裾のところで裏地をわざと表に折り返して目立つようにして表裏の色を見せる場合があります。また、羅・紗・絽などの薄絹を使って、光を透過させて裏の色を見せる場合もあります。

こうした襲の色目に、「卯の花」「蓬」など季節それぞれの草木の彩りを名付けて楽しんでいました。色彩を名付けるにも、歌を詠み、物語を綴るのと同じく、季節を尊び愛でる教養が備わっていなければなりません。一年を四季に、次に立春、春分、夏至、秋分という二十四節気に、そして四、五日の周期に分ける七十二候に分け、自然の微妙な移り変わりに眼をこらして、その感性を衣裳にうつしていきました。毎月のように繰り広げられる宮中における節句や儀式の場において、また私邸において催される宴において、王朝貴族たちは、華麗な色の競宴をしていたのです。

 

 

【襲の色目の構成】

襲の色目の構成法には、匂い、薄様(うすよう)、裾濃(すそご)、村濃(むらご)、おめり、などがあります。
「匂い」は、本来、色が映え、美しく好ましく優れていることを意味し、華やかさ、香り、光まで含んで気高いことをあらわしています。襲における「匂い」には、濃い色と淡い色を対比させる場合と、同色の濃淡で暈絢のようにあらわす場合の二通りがあります。
「薄様」は、匂いに近い言葉で、上から順に薄くしていくことをいいます。また、透けるような白を上に重ねて、下の濃い色を淡く見せることにも用います。
「裾濃」は、同系色で襲を構成し、上は薄く、下に近づくほど濃くするもの。甲冑の威(おどし)にも行われた。
「村濃」は、班濃、叢濃とも書き、同色にところどころ濃い色や薄い色を混ぜるもの。
「おめり」は、「於女里」と書き、「ふきかえし」の古称。衣を袷仕立てにしたときに、袖口や裾の裏地を表に折り返して縁のようにみせるもの。



   
   

四季の襲の色目

襲の色目には、着用者の性別や年齢などによっても決まりがあるのはもちろんのこと、「桜」「撫子」「桔梗」などという名称からもわかるように、季節によって着用期限が限られていました。たとえば、雪の下で紅の花を開かせる梅を想像させる、表白裏紅梅の重ねを「雪下の重ね色目」と呼び、冬に用いるものとしたように。以下は、代表的な四季の襲の色目です。


早春の襲の色目ー「曇華院装束抄」から再現
紅梅
雪の下
海松色
(みるいろ)
木賊(とくさ)
椿
葡萄(えび)

春の襲の色目ー「女官飾抄」から再現

樺桜(かばざくら)
花山吹

夏の襲の色目ー「満佐須計装束抄」から再現

杜若
(かきつばた)
卯の花
蝉の羽
撫子
秋の襲の色目ー「満佐須計装束抄」から再現
桔梗
女郎花
(おみなえし)
黄朽葉
落栗色
黄菊
紅葉