青

藍染め
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藍を染色する方法には生葉染めと建染め(たてぞめ)の二つがあります。生葉染めは夏にしか染めることができないので、葉を保存し染める方法が考えられました。
その方法は大きく分けて3つありますが、ここでは「スクモ」での染めをご紹介します。
青ものがたり

夏に蓼藍(たであい)を刈り取り、葉を乾燥させ、干した葉を積み上げて水をやり、蒸して腐らせます 。葉っぱを腐葉土(ふようど)のようにするのです。

蓼藍:タデ科の草本
学名 Polygonum tinctorium LOUR
日本、中国北部などの高温多湿で肥沃な地域に生育する。
インドシナ半島の原産。

これをスクモと呼びます。
いったん腐葉土のようにすると、藍の成分は変わらないので、いつまでも保存しておくことができるのです。
藍の染液を作るにはスクモに木の灰で作った液をかけ、混ぜます。
さらにそこにお酒や焼酎、麩(ふ)などを入れて発酵を促します。
藍の発酵が進むにつれ、表面がぶくぶくと泡立ち「藍の花」ができます。
この状態を「藍が建(た)つ」と言います。
こうなれば、もう染めることができるのです。
この工房では長方形の板締めの染めをする関係で、このような容器で藍を発酵させています。
周りにはお湯がはられ、常に同じ温度になっています。
染液の中に布を入れます。
液の中で布を動かし続けます。
染める時間が長いと濃い色に染まります。
染液の中ではまだ布は緑色です。
染まった布を引き上げます。まだ緑色をしています。
布を真水で洗います。
水で洗い、空気に触れると藍は緑色から美しい藍色に変わります。
鮮やかな青い布が染めあがりました。
ひとくちに藍染めといっても、日本の歴史の中では大きく分けて、二つの藍染めがあるといえるでしょう。
ひとつは辻が花や茶屋染めなどのような、美しく繊細な藍ともうひとつは、木綿絣や地方で染められた型染めなどのような濃い藍です。

このように日本で藍は、高貴な人にも庶民にも、愛されつづけてきたのでした。
パソコンの環境によっても違いますので表示している色は近似色です。
正確な色ではありませんので御注意下さい。


藍は、藍草の葉で染めた色の総称として用いられる。ただし後述のように、「平安朝をのぞいては」というのが正確であろう。また、染料となる植物そのものをさす。

中国最古の字書『説文解字』には、藍は「青を染める草なり」とある。それよりおよそ三百年ほど前になる『荀子』の勧学篇にみえる「出藍の誉れ」と同様のことが記されていて、藍は染色の材料、青は色名に使われているといえる。
日本においての「藍」はその両方使われてきたようで、『正倉院文書』には、「藍色百張」とあり、また『国家珍宝帳』には「藍色琉璃廿」という記述もなされているから、この頃の藍は、緑系ではなく、黄味の入らない瑠璃のような青を示していたように思われる。

平安時代に編された『延喜式』には、緑、縹、藍の文字のつく色名が見える。ところが、縹だけが藍の染料だけで染められていて、ほかのものは青と同じように藍に黄色の染料である黄蘖や刈安が掛けられており、いずれもやや緑がかかった色となっている。
どうやら平安時代の人々は、縹色だけを、空の色のような、黄色がまったく混じらない、今日でいう青、と考えていたようである。今日では藍色といえば、藍の葉だけで染めた色をさしている。
植物の葉は枯れると薄茶色になるのが普通であるが、藍の色素を含んでいる葉は青色を呈していることに気づいたのが始まりと考えられる。

日本では、タデ科の藍が用いられてきた。五世紀から六世紀にかけて中国から渡来したもので、平安時代には播磨国と、京都南部の鴨川の下流にあたる九条あたりの湿田が主な産地であった。
桃山時代にいたって、蜂須賀家政が阿波徳島の藩主となってから、暴れ川と異名をとる吉野川の氾濫を逆に利用して、藍の栽培を始めたのである。洪水によって毎年のように新しい土砂を運び込む吉野川の下流一帯にとって、その地にも強靭に生育する蓼藍は格好の作物であった。加えて瀬戸内海の水運の発達によって、この地で「すくも」という形にされた干藍を各地に運ぶことも可能になったのである。

徳島の藍の栽培が盛んになり始めた頃に、日本でも木綿が栽培されるようになり、藩の殖産振興作物として作付けが奨励されていった。木綿という植物繊維は、とくに藍の染着性に富んでいるところから、それらの地方には村々に紺屋ができて、徳島から運ばれた藍で染められたのである。



濃く、深く、黒と見紛うほどの、藍で染めた色で、わずかに赤、もしくは紫がかった色をさしている。

中国では古くから登場し、孔子の『論語』郷党篇には、「君子は紺しゅう以って飾らず」(紺色や赤茶色は祭服や喪服の色なので、襟や袖口には飾らない)とある。そして、『説文解字』では、「紺、帛の深青にして赤色を揚ぐるものなり」とあって、やや赤味のある藍染布をさしているようである。これは藍甕のなかに布を浸けては乾かすという染めの工程を何度も重ねると自然とやや赤味を帯びてくることがあり、それをあらわしているように思われる。また、先に茜染をしてから藍を染めたものをいうこともあったらしい。

日本においては、紺が見えるのは、大化三年(六四七)の七色十三階の冠位の制で、その五番目、青冠に「服(きぬ)の色は並に紺を用ゐる」とあって、この「紺」を「ふかきはなだ」と読ませている。『正倉院文書』にも紺布幕、紺布垣代などが見られる。平安時代の『延喜式』にも、紺色の平絹や、「紺衣」などが記されている。

桃山時代から江戸時代にかけて木綿が普及するにしたがって藍染が盛んになり、紺屋が地方の村や町にも出現した。紺屋は藍染めを得意としたものが多かったが、やがて染屋の総称ともなり、「こうや」「こんや」と呼ばれ、その職人を紺掻(こうかき)ともいった。
江戸時代に職人や商人の仕事着として紺地の法被を着せることが流行したが、それには背中に商店の屋号や商売を一目であらわす象徴的な紋などを入れたため、紺看板ともいった。祭りの袢纏なども、もっぱら紺地であった。
紺から発して、きわめつけのような濃紺を「留紺」といい、黒味のあるものを「鉄紺」、紫がかったものを「茄子紺」などと呼んだ。

 


縹色は、藍色より薄く、浅葱色(あさぎ)より濃い色をさす。

しかし、古くは藍で染めた色の総称のように用いられたようで、『日本書紀』持統天皇四年(六九〇)の色制では「追の八級には深縹。新の八級には浅縹」、『延喜式』では深縹、中縹、次縹、浅縹に分け漂られて、次のようになっている。「濃縹綾一疋。藍十囲。薪六十斤。……中縹綾一疋。藍七囲。薪九十斤。……浅縹綾一疋。藍一囲。薪卅斤。……」。一般に縹色と呼び習わしているのは、この中縹程度の色調にあたると考えてよい。

中国の後漢時代に撰せられた、諸物の名の字義を説いた『釈名』には「縹猶漂。漂浅青色也」と見え、さらに『説文解字』にも「帛の青白色なるものなり」とあって、淡い青色であったようだ。

正倉院には、楽器の琵琶を入れてあった袋が伝来し、「縹地大唐花文錦」と呼ばれていて、澄んだ美しい縹色が印象的である。これを見れば、縹色を「くすんだ青」と解説するのが間違いであることを理解していただけると思う。「縹」は「花田」とも記されるが、これは当字である。
また「花色」は花田色の略で、初夏に咲く月草(露草)で色を染めたことに由来するとする説もある。

 


黒色に見えるほどの濃い藍色。今日「かっしょく」 と呼ぶ、赤茶色とは別である。「かつ」には褐があてられるが、本来は藍を濃くするために「搗(か)てて、 (搗(つ)いて)」染めるところからの名前という。

「かち」に「勝」の字をあてて勝色とし、縁起を担いで武具の革や布帛を染めたため、「褐色威」とか「褐色の直垂」などの表記が軍記物語によく見られる。

播磨国は昔から藍の産地として知られ、その飾磨に産する褐色が古くから「飾磨の褐」と名高く、尊ばれたという。
青味の強い褐色を「青褐(あおかち)」という。
日本の色辞典 紫紅社