赤




今度は「艶紅(ひかりべに・つやべに)」と呼ばれる天然の口紅を作ります。 綿などの植物性の繊維を、紅花の赤い液に入れて染めます。 そこに米酢を足すと、それらの繊維に赤い色素が早く吸収されるのです。 何度かこれを繰り返し、濃い色の布にします。
染まった木綿の布を、少な目の稲藁の灰汁(あく)につけます。 そうすると、一旦染み込んだ赤の色素が、灰汁の中に溶け出していき、 紅花の濃縮液ができます。
 
これに烏梅(うばい)の液を、ゆっくりと加えると、色素が器の底に沈殿していきます。
一昼夜、放っておくと、上は澄んだ水になり、下に紅花の泥のような層ができます。
 
うわ水を捨てて、これを羽二重で漉すと、布の上に純粋な紅の泥が出来上がります。
艶紅(つやべに)の完成です。 白い磁器などの器に塗り重ねて使います。 艶紅は光を受けて、玉虫色になり、時には緑に、また黄金色に輝き、いにしえより女性の唇や頬を美しく彩ってきました。

パソコンの環境によっても違いますので表示している色は近似色です。
正確な色ではありませんので御注意下さい。
   
紅花が日本に渡来したのが五世紀とされ、中国では紅藍と呼び習わされていた。紅は赤を意味し、藍は青であるが、もっとも親しみやすく代表的な染料であったから、「藍」は染料の総称ともなっていた。したがって紅藍は紅花の染料のことで、当時の日本人は、揚子江の南にあった呉の国から渡来した染料ということで呉藍(くれあい)と発音し、それが「くれない」へと転訛したのである。
「紅の花にしあらば衣手に染めつけ持ちて行くべく思ほゆ」(『万葉集』巻一。あなたが紅の花だったら、袖に染めつけて持ってゆきたい)などと詠まれ、紅花染は万葉の人々の愛するものとなった。
また、『正倉院文書 』にも紅臈纈、紅紙など、おびただしい数の「紅」の文字を見ることができる。
そして中国の大唐帝国がわが国の文化に強い影響をもつようになったの奈良時代から平安時代にかけて「紅」の文字の上に「唐」あるいは「韓」を冠して「唐紅」「韓紅」といわれるようになる。
平安時代になると、色と染料などを季節の草花の彩りになぞらえて、詩歌や物語にあらわすようになった。
   

紅花の色素を沈殿させたもので、黒味があるように見えるほど濃い赤色で、それを白磁の皿などに塗ると、光線の具合で金色に輝く。
紅花には人間にとって有効な面がたくさんある。薬効としては血液の循環をうながすために高血圧の薬になる。紅花油として市販されているように、その種には油分が多く含まれている。そして染料、化粧品としても広く用いられてきた。
これが江戸時代以前、 日本女性の口紅、頬紅となっていた。
この艶紅を、蛤の貝殻、白磁の皿などに塗って乾かして保存しておくと、いつでも筆で溶いては口紅、頬紅として使うことができたわけである。
   
紅花は、エジプト、エチオピアあたりが原産の植物で、やがてシルクロードという東西文明の交流路によってアジアへともたらされた。
中国へは、紀元前127年、前漢の武帝が遊牧民系の匈奴(きょうど)の地であった燕支(えんし)山を奪ったとき、そこが紅花の産地であったところから、導入されたといわれている。
日本では5世紀から6世紀にかけて渡来し、呉の国からやてきたということから「呉藍」(くれあい、藍は染料の総称である)と記されていた。
やがて、それは「くれない」となり、大唐帝国の影響が強くなっていった奈良時代に、カラの字が冠せられて、濃い紅花の赤は唐紅、韓紅と記されるようになった。
『延喜式』には、「韓紅花綾一疋、紅花大二斤」とあって、濃い色であることを示している。それは燃えるような紅葉の赤い色であったようで、王朝の歌人在原業平は「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれなゐに水くくるとは」と、紅葉の名所龍田川の絶景を詠んでいる。
   
紅花で染めたかなり濃い赤色をさすと考えられる。
「今様」とは、当世風、すなわち今流行りの意である。この言葉は平安時代から使われていたようで、王朝時代の女性にとって流行色とでもいえるもので、当時の人々がいかに紅花染の赤色の系統を好んだかがわかる。
ただ、「今様色とは紅のうすき、ゆるし色をいへり」(『源氏男女装束抄)、また「今様色トハ紅梅ノ濃ヲ云也」(『胡曹抄:こそうしょう』)、とまさに諸説紛々である(両書ともに室町時代後期の成立)。
だが今様色が聴色(ゆるしいろ:一斤染いっこんぞめ)のように薄い色とは考えられないのは『源氏物語』「玉鬘(たまかずら)」の巻の衣配り(きぬくばり)の場面である。
光源氏は紫の上とともに、歳の暮れに明石の姫君、花散里、玉鬘、末摘花、空蝉など女君たちに贈るための衣装を並べて選んでいる。そのなかで、彼がもっとも愛してやまない紫の上には「紅梅のいと紋浮きたる葡萄染(えびぞめ)の御小袿(こうちき)、今様色のいとすぐれたる・・・」を贈っている。この場面から推し量るに、今様色というのは、身分の低い人にやっと許されるような薄紅の一斤染、聴色ではなく、禁色に入るほどの濃色相と判断されるのである。
また、紅梅と同じ色という説に納得できないのは、同じ物語のなかには紅梅色も今様色も両方の表現があって、筆者の紫式部が二つの色を明確に使い分けているからである。
私見であるが、中の紅よりやや濃く、そして支子(くちなし)などの黄色も入らない、紅花染の色と考えたい。
   

春の陽を受けて美しく咲きそろった、満開の桜の花の、ほんのりと色づいた淡い紅色をいう。ここでは平安の昔からなじみ深い山桜系の色としておきたい。
現在、私たちの周りに多い品種は染井吉野であるが、これは江戸時代の終わり頃に改良された品種であり、伝統的な桜色にはふさわしくないように思われるからである。
日本人にとって桜ほど愛しい花はない。春めく頃になれば、今年の満開の時を心待ちにするが、それは平安時代になってからのことである。『万葉集』には梅のほうが多く詠まれていて、往時は桜より親しまれていたことがうかがえる。
京都に都が遷されて、和の文化が芽生え始めてからは、花といえば桜をさすようになってくる。そうした日本人の桜への思いは、桓武天皇が御所の紫宸殿の前庭の、もともと梅樹があったところへ、吉野から取り寄せた桜を植えたことに始まるとされている。左近の桜、右近の橘が並ぶようになって、桜への礼讃が広まっていったのである。
花の盛りの頃には「花の宴」が催され、桜を賞して詩歌を詠み、管絃を奏して華やかな時が繰り広げられたのである。 花の宴は桓武帝の皇子、嵯峨天皇が弘仁三年(812年)の二月に催されたといわれるが、そのあともしばしば行われたといわれる。

 

日本の色辞典 紫紅社
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