紫


紫根で染められた色

紫は、高貴な人々にだけ許された、いわゆる禁色(きんじき)である。
紫の色は、紫草の根を用いても、西洋のように貝を用いる場合でも、原料を入手するのにも手間がかかり、高価であり、より深い色を染めるには日時と労力を要することは間違いない。しかし、ただそれだけでは、人類の歴史上、これほどまでに高位の人々の色とはされなかったであろう。それは紫という色の妖艶さによるのである。

※パソコンの環境によっても違いますので表示している色は近似色です。正確な色ではありませんので御注意下さい。

深紫(こきむらさき)とは、紫草の根(紫根)によって、何度も何度も繰り返し染めた、黒味がかったような深い紫をさしている。

推古天皇十一年(603)、聖徳太子が制定した冠位十二階の制において、もっとも高位のものとされたのが紫で、そのあとに出てくる「深紫」「黒紫」もほぼ同様の色をさしていると考えられる。
正倉院には、聖武天皇ご愛用の鳳文錦褥(ほうおうもんにしきのじょく)と、天平十四年(742)の年号が編み込まれた最勝王経帙(さいしょうおうきょうのちつ)が遺されていて、一千二百年たった今も天平の紫の色を見ることができる。

紫を尊ぶ思想は平安時代にも伝えられ、清少納言がいみじくも記した、「すべて、なにもなにも、紫なるものは、めでたくこそあれ。花も、糸も、紙も」という一文がすべてといってもよいだろう。
また『源氏物語』は作者自身が紫の式部と称し、主人公光源氏の母は桐壺の更衣、愛する女性は藤壺でいずれの花も紫の色、さらに紫の上などと、紫色にゆかりの深い人物が登場する。平安時代はこうした風潮のなか、たんに「濃き」といえば「濃紫」を、「薄き」といえば「薄紫」を意味するほどであった。

深い紫を尊ぶ思いは、天皇を中心とする時代から鎌倉時代の武家の社会になっても続いた。それは豊臣秀吉が愛用し、のちに南部信直(1546〜99)に賜ったという辻が花染桐矢襖文様胴服の肩のあたりの、桐文様を絞った紫根染の色にもよくあらわれている。



古代というのは、日本の歴史を学ぶ通例の分類からすれば、平安時代より以前ということになる。

古代紫は、奈良あるいは平安の都のあった頃に尊ばれ、そこで染色をしていたいうことになる。紫根で染め、椿の生木などを焼いた灰で発色していたのである。

京紫は、平安時代以降政権が武家に移っても、染織においては京都が長くその中心であったために紫染の伝統を引き継いでおり、そのために付け加えられた名称で、古代紫と同系と見てよいであろう。

京紫と江戸紫との色の比較は、その昔からさまざまな論議を呼んでいるが、技術的には、作業を染料の液で終えるか媒染液で終えるかの差だけである。
江戸紫が青みの紫であるのに対して、京紫は赤味の紫というのが一般的な考えである。だが、それには何の根拠もないとする説もある。
また、京紫は古代紫の系統で、成熟した茄子のような青味の色と考える人もいる。それは、江戸時代、伊勢貞丈が考説した公家・武家の有職故実に関する随筆『安斎随筆』に「今世京紫といふ色は紫の正色なり。今江戸紫といふは杜若の花の色の如し。是葡萄染なり。」とあるのを論拠とするようだ。 つまり江戸紫は、杜若(かきつばた)の花の色や葡萄(えび)色の語源となったといわれる山葡萄(やまぶどう)の実の色のような、やや赤味のあるものであると説いている。


春の終わり頃から淡い紫色の花房を優美に垂らす藤の花。 その淡い青味のある紫色をいう。
藤紫も、まさに藤の花の美しく咲き誇っているさまをあらわすといえる。
日本に分布する藤は野田藤(茎は右巻き)と山藤(左巻き)の二種があって、いずれも山野に自生する。茎は他の樹木に絡みながらどんどん伸びてゆく強靭さをもっている。 私たち日本人にとってなじみ深い花木である。

『万葉集』には、「藤波の花は盛りになりにけり平城(なら)の京(みやこ)を思ほすや君」(巻三。大伴四綱)と詠まれている。花房が風に揺れたり、幾つも下がるさまを藤波という。

中臣鎌足が大化の改新による功で藤原の姓をたまわった。藤色は、紫で、常に政権の中枢をとって栄耀栄華をほしいままにしてきた藤原氏ゆかりの花の色であることから、平安時代には色のなかの色とされたという。

『源氏物語』の藤壺の女御は、文字どおり藤の花が咲く庭のある殿舎に住まっていたことによる呼び名であるが、そこには藤の花に対する敬意があらわされている。藤壺の女御は桐壺帝の寵愛を一身に受け、その子光源氏に慕われる聡明な女性に描かれている。

藤の襲には「表淡紫、裏青」をはじめ、数種見られる。

鎌倉時代の終わり頃に著された『雁衣青鈔かりぎぬしょう』には、このような淡い紫色を染めるには、紫草の根で染める場合と、蓼藍(たであい)と紅花(べにばな)を掛け合わせてわずかに青味の紫にする技法が記されている。


紫草の根で染めた「濃き」と「薄き」の間の色、中間的な紫色。 「半色(はしたいろ)」も中間の、半分の色で、同色とみなしてよい。

平安初期、大同四年(809)の『日本後期』に中紫の名称が記されていて、位の色となっていたようである。
『延喜式』には、綾一疋を深紫に染めるのに、紫草(紫草の根)三十斤、浅紫は紫草、五斤と記され、「中紫」は記されていない。それから判断して十五斤ほど使ったものと想定される。
十世紀頃成立の『宇津保物語』には、「いぬ宮いだきたてまるりで、・・・・御ぞはしたいろのちいさきも」と見える。


日本の色辞典 紫紅社

 

紫ものがたり