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日本の染色の技術は、五世紀、大和の国にようやく統一政権が誕生した頃より、中国および朝鮮半島との交流が盛んになって、飛躍的に進歩した。
『日本書記』の応神天皇三十七年には、高度な錦を織る技術者を派遣してくれるように中国に要請していることが記されている。当時すでに呉の国はなかったが、呉を通交して以来、わが国では呉は中国の意にも用いられ、中国伝来のものに冠せられたりしていたのである。
加えて、藍染や赤い紅花、艶やかな紫など鮮やかな色彩を染める技と、それに用いる染料植物ももたらされるようになった。そのための紅花を、呉の藍、すなわち呉の国からやってきたということで「くれのあい」といいあらわしている。赤い色を出す染料であるのに、呉藍、紅藍と「藍」を用いるのは、藍は染料を総称する言葉でもあったからである。
そうしたことから、蓼藍(青)と呉藍(紅花、赤)という二種類の藍(染料)を掛けてあらわす紫系の色を、いつの頃からか二藍(ふたあい)と呼称するようになった。
染色をする手順では、必ず藍を先に染めてから紅花の染液に浸けなければならない。なぜなら、紅花は、藍甕のなかの藍のように、木炭が入ってアルカリ性になっている染料の中に入れると、色素を放出してしまうからである。
まず、藍を所定の色に染め、紅花を重ねることによって紫の明度を加減していく。したがって桔梗の花のような色は藍を濃く、紅花を薄くかけることによって渋い青紫の色となるのである。
このような二藍は平安時代の人々にとってはある意味で流行色でもあったのである。『枕草子』三十二段で清少納言は寛和二年(九八六)の法華八講などの様子、参じた公卿の衣裳などを回想して、「二藍の指貫(さしぬき)、直衣(のうし)、浅葱(あさぎ)の帷子(かたびら)どもぞ、すかしたまへる」などと記している。
とりわけ男性の直衣(平時服)は三重襷模様の生絹(すずし)が一般的で、若いほど赤味に、年齢を重ねるほど縹(はなだ)がちの色になっていったようである。
日本の色辞典 紫紅社
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