「亥の子」は、田の神を迎え、送る農耕神の風習にもとづく 農産物の豊作を祝う、収穫儀礼です。西日本では、多く行われ、亥の月の亥の日の亥の刻「亥の子餅」を食べて、みんなの健康や繁栄を願ったそうです。平安時代から、玄猪(げんちょ)といって公家や武家でも祝われていました。

玄猪(げんちょ)
平安時代、年中行事として行われた亥の子餅の儀式は、聖上がお手づから、おうすづきになられた新穀のお餅を賜り、それを食することで無病息災を祈る行事であり、当日が旧暦の10月亥の月亥の日のため、玄猪(げんちょ)の儀と呼ばれました。
この儀式は、「亥子祭」として、神社において、現在でも行われています。
特に護王神社の祭典は、古式ゆかしくおこなわれ有名です。衣冠の神職と、平安朝女房装束に身を装った5人の子女が、亥の子餅をうすづく神事を行います。その後、神社、蛤御門、清所門と調貢列を整えて参内。亥子餅献上の儀におよびます。 

亥の子餅
もともとは、大豆、小豆、ささげ、胡麻、栗、柿、糖の七種の粉で作られたといわれます。その後、平安時代の「玄猪(げんちょ)の式」という宮中の儀式として気品高いお菓子となりました。それは、黒・赤・白の三種の餅で、胡麻(黒)、小豆(赤)、粟(白)をまぜてつくられました。武家においても鎌倉時代より儀式化されていたそうですが、一般には室町末期あたりから儀式が済んだ後にふるまわれました。白色と、小豆の赤、胡麻の黒に色付けされた形式もこの頃に見られたようです。
また、最初の亥の日には菊、中の亥の日には楓、三度目には銀杏が添えられました。江戸時代には、「亥の子餅遊び」といって「亥の子といえば餅をつく〜」と戸外で唄いながら遊ぶほど、たいそう子どもたちにも親しまれていたようです。

亥の子餅、玄猪餅の包み
つくられた亥の子餅、玄猪餅は、禁裏や将軍、領主らが配下の者や領民に授ける習わしがあったそうです。その際、餅を包む様式にも位階その他により折り型が区別されていたといわれています。かなりの型の数が残されており、いずれも凝ったものが多いです。これは年中行事としての重要度が高かったことを示しています。
また、包みの掻敷に、同月一番の亥の日にはしのぶと菊、二番の亥の日にはしのぶと紅葉、三番の亥の日にはしのぶと銀杏の葉を敷くなどの決まりがありました。
護王神社での亥の子祭










2001年11月1日
毎年11月1日に「亥子祭」が開催されます。
さながら王朝絵巻のひとこまです。
三種類のお餅をつき、御神前と御所に献上します。
普段は入れない御所に、特別に入れることも魅力の一つです。一般のお客様も気軽に参加する事ができます。

京都市上京区烏丸通下長者町
TEL 075−414−0255

七五三の祝いは、11月15日に、本来は数え年で、3歳と5歳と7歳になると、神社に詣で、子供の成長を感謝し、将来の幸 せを祈願しお祓(はら)いを受ける儀礼のことです。しかし、なぜ、七五三が十一月なのでしょうか。なぜ、7歳、5歳、3歳なのでしょうか。

七五三の由来
七五三の祝いは、かつて武家社会において子供の成長の節目にあたって行われました。男女共に三歳になると「髪置き」(かみおき)といって髪を伸ばして結い直す儀式が始まりです。現在は5歳となっていますが、古くは男の子は7歳で、袴の腰をあて紐を結ぶ「袴着」(はかまぎ)という儀式を行い、女の子は七歳になると「帯解」(おびとき)という、つけひもをとって初めて本式の帯を締める儀式を行いました。

*「髪置の儀」 古来男女共通のお祝いでそれまで剃っていた頭髪を、初めて伸ばす儀式が起源とされています。
*「袴着の儀」 平安時代、宮廷貴族社会で行われた通過儀礼が起源。江戸時代 には武家・庶民にも広まり特に男児に袴を着つけさせて、幼児から童児になる為のお祝いとなりました。
*「帯解の儀」 帯直しの祝いともいわれていますが、つけ紐を除いて帯をすることから帯解の祝いといいます。
 こうした儀式には、長寿で多幸ある人や一族中の名望ある人が、仮親として依頼されました。江戸中期以降5歳が男の子のお祝いとなってからは、女の子のお祝いとして定着したようです。

七五三のお祝いの始まり
七五三のお祝いが十一月十五日に行なわれるようになったのは 江戸時代からだといわれ、その由来は諸説あります。例えば徳川綱吉の子、徳松の祝をこの日にいったからであるとも、この日が鬼宿日に当たるからであるからともいわれています。
また十一月の十五日が、氏神の収穫祭をさし、この祭日に氏神様に詣でて子供の成長を祈願し、社会の構成員として、神にも周囲にも認めてもらうように、いつの間にかこの日が七五三のお参りの日になったという説もあります。