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俳句の手帖
 
触れてみたい先人の感覚

水原秋桜子
裏磐梯に残る句碑 冬菊のまとふはおのがひかりのみ
水原秋桜子(みずはらしゅうおうし1892-1981)は、正岡子規(1867-1902)が拓き、高浜虚子(1874-1959)が大きく開花させた近代俳句をさらに豊かにした次世代の代表的な俳人です。産婦人科病院を経営する医家に生まれた秋桜子は、東大医学部卒業後血清学を学び、宮内省侍医、昭和医専教授とエリート医師の道を歩みます。その傍ら中学時代から俳句に親しみ、20歳代で高浜虚子に入門、「東大俳句会」を設立し中心メンバーとなります。また窪田空穂に指示して短歌にも手を染めます。昭和初年には、秋桜子は阿波野青畝(あわのせいほ1899-1992)、山口誓子(やまぐちせいし1901-1994)、高野素十(たかのすじゅう1893-1976)とともに『ホトトギス』の4Sとよばれる花形俳人になります。写生と短歌的な叙情による端正な句は多くの人に愛されました。
あきらめし旅あり硯洗ひけり  しかし、秋桜子はそれだけに飽き足らず、写生からもう一歩踏み込んで人間の内面を写してこそ文芸の真実となる、と主張しました。この考えは師高浜虚子の「客観写生」とは相反するものでした。論争、そして煩悶ののちに秋桜子は『ホトトギス』を離脱、昭和9年(1954)、『馬酔木(あしび)』を主宰して独自の俳句活動に入ります。40歳代の秋桜子は、連作俳句を試みたり、無季非定型句を作るなどさまざまな創作活動を行いました。一時は無定形俳句の旗手と目されましたが、やがて有季定型句の世界で独自の道を歩むようになります。『馬酔木』からは石田波郷(いしだはきょう1913-1969)、加藤楸邨(かとうしゅうそん1905-1993)などの俳人が育ちます。
水原秋桜子が愛した南アルプス東京空襲によって神田の病院、自邸を焼失した秋桜子は、八王子に疎開。以後9年にわたってこの地に住むことになります。この生活の変化が秋桜子の句に一段と深みを加えます。秋桜子は昭和天皇、皇后の侍医として厚い信頼を受けていましたが、昭和27年(1952)には医師を廃業、昭和29年(1954)には、西荻窪に転居、ここをついの棲家とし、日本各地を旅して句作に励みました。とりわけ、南アルプスや磐梯山など日本の美しい自然を愛し、何度も足を運びました。滝に名前をつけたりもしています。また、歌舞伎や絵画、陶芸などにも没頭、独自の世界を開拓しました。昭和39年(1964)に芸術院賞受賞、翌年には俳句協会会長、さらにその翌年には日本芸術院会員。高浜虚子なきあと、秋桜子は俳句界の第一人者となったのです。『葛飾』」『蘆刈』『残鐘』などの句集も高い評価を受けています。

水原秋桜子の墓(東京・染井霊園)晩年の秋桜子は、「きれい寂」と呼ばれました。あくまでも自分の美意識にこだわり、年齢とともに枯れていく境地を深めていきました。
最晩年までみずみずしい感性をたたえて、昭和56年7月17日、水原秋桜子は世を去ります。88歳でした。

 

天国の夕焼けを見ずや地は枯れても