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俳句の手帖
 
触れてみたい先人の感覚

正岡子規

子規の少年時代の勉強部屋
子規の少年時代の勉強部屋
(松山市正宗寺 子規堂内に再現されている)
子規と野球の記念碑
同じく正宗寺に立つ子規と野球の記念碑
正岡子規記念館
松山市 道後温泉近くの正岡子規記念館
絶筆の三句

虫の音を踏み分け行くや野の小道「俳句は正岡子規が作ったのだ」
こう語られるほどに、正岡子規は近代俳句史上に大きな足跡を残しています。

子規は元号が「明治」と改元される前の年の慶応4年(1867)、伊予(愛媛県)松山藩士正岡隼太の子として生まれました。後年、お互いに深い影響を与え合う夏目漱石とは同い年、同年生まれには、作家の幸田露伴、日本の民俗学を始めた巨人南方熊楠、自動織機を発明した豊田佐吉などがいます。

父を早くに失った子規は母方の祖父大原寒山に素読を学び、松山中学に入りますが、十七歳で上京、翌年、大学予備門に入ります。東京での生活は、若い子規の感受性に大きな影響を与えました。19歳で哲学、短歌、そして俳句に目覚めた子規は、政治運動にまで手を染めます。また野球にも熱中します。(「野球」という言葉の命名者だという説もあります)

正岡子規三句きらきら輝く青春のただ中で子規は夏目漱石と出会います。互いに23歳。はじめは「落語が好き」ということで意気投合した二人は、終生の友となります。

しかし、このときすでに子規は度々喀血をしていました。当時、不治の病とされた結核に冒されていたのです。「子規」とはほととぎすのこと。真っ赤な口を大きく開けて鳴くこの鳥を「鳴いて血を吐くほととぎす」ということからつけた筆名です。すでに20代半ばで、子規は余命を意識していたのでしょう。

この青春期から36歳で短い生涯を了えるまでの十数年間に、子規は驚異的な仕事を成します。自らの俳句、短歌の創作活動の傍ら、河東碧梧桐、高浜虚子ら後輩を育成、雑誌「日本」に俳句欄を起こし選者を務め、日清戦争に記者として従軍、「俳諧大要」などの評論も展開。普通の人の数倍のスピードで子規は人生を駆け抜けたといえるでしょう。

31歳になり、故郷松山で「ほととぎす」が創刊されたときには、子規はカリエスに冒され足腰が立たなくなっていましたが、短歌革新運動の記念碑的な著作「歌よみに与ふる書」を連載します。

明治35年(1902)、子規は容態が悪化、碧梧桐、虚子らが徹夜で看病するようになります。しかし、創作活動への意欲はすさまじく、自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻(だっさいしょおくはいくちょうしょう じょうかん )』の刊行、「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」の連載(雑誌『日本』)などを続けます。9月に入って昏睡状態となりますが、18日三句の絶筆を残し、翌9月19日、息をひきとります。36歳でした。

没後百年、正岡子規の名は、俳句界に今も輝き続けています。今年、野球体育博物館は正岡子規の「野球殿堂入り」を発表。子規のふるさと、松山にできた「坊ちゃんスタジアム」でのプロ野球オールスターゲームの試合前に、殿堂入りの表彰式が行われました。文学の世界で数々の業績を讃えられている子規ですが、青空のように明るい性格の子規にとって、ひょっとするとこの表彰が一番嬉しかったかもしれません。

高浜虚子の句