|
きらきら輝く青春のただ中で子規は夏目漱石と出会います。互いに23歳。はじめは「落語が好き」ということで意気投合した二人は、終生の友となります。
しかし、このときすでに子規は度々喀血をしていました。当時、不治の病とされた結核に冒されていたのです。「子規」とはほととぎすのこと。真っ赤な口を大きく開けて鳴くこの鳥を「鳴いて血を吐くほととぎす」ということからつけた筆名です。すでに20代半ばで、子規は余命を意識していたのでしょう。
この青春期から36歳で短い生涯を了えるまでの十数年間に、子規は驚異的な仕事を成します。自らの俳句、短歌の創作活動の傍ら、河東碧梧桐、高浜虚子ら後輩を育成、雑誌「日本」に俳句欄を起こし選者を務め、日清戦争に記者として従軍、「俳諧大要」などの評論も展開。普通の人の数倍のスピードで子規は人生を駆け抜けたといえるでしょう。
31歳になり、故郷松山で「ほととぎす」が創刊されたときには、子規はカリエスに冒され足腰が立たなくなっていましたが、短歌革新運動の記念碑的な著作「歌よみに与ふる書」を連載します。
明治35年(1902)、子規は容態が悪化、碧梧桐、虚子らが徹夜で看病するようになります。しかし、創作活動への意欲はすさまじく、自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻(だっさいしょおくはいくちょうしょう
じょうかん )』の刊行、「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」の連載(雑誌『日本』)などを続けます。9月に入って昏睡状態となりますが、18日三句の絶筆を残し、翌9月19日、息をひきとります。36歳でした。
没後百年、正岡子規の名は、俳句界に今も輝き続けています。今年、野球体育博物館は正岡子規の「野球殿堂入り」を発表。子規のふるさと、松山にできた「坊ちゃんスタジアム」でのプロ野球オールスターゲームの試合前に、殿堂入りの表彰式が行われました。文学の世界で数々の業績を讃えられている子規ですが、青空のように明るい性格の子規にとって、ひょっとするとこの表彰が一番嬉しかったかもしれません。
|